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電源・非電源ゲーム全般の紹介・考察ブログ

ナラティブを知りたくて、僕はゲームの旅に出た【What Remains of Edith Finch】

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 そのゲームは2018年にナラティブアワードを受賞していた。だからきっとそこには現在最先端のナラティブがあるはずだ。
 そのプロモーション映像を見たとき、僕がはじめに感じたのは「不思議なゲームだな」ということだった。でも、旅の始まりには最適なゲームに違いなかった。

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はじまり

 それにしても、こういう気持ちでゲームをプレイするのははじめてだった。僕はそんなにゲーム経験が豊かな方ではなかったし、遊んできたゲームの数より読んできた小説の方が多いくらいだ。だから今回、居住まいを正して大きなディスプレイに浮かび上がったAnnapurna Interactiveのロゴを前にしたとき、僕はどちらかといえば小説を読みはじめるような心持だった。

プロモーション映像

 そもそも今日遊ぶ「What Remains of Edith Finch」はどういうゲームなのか。僕と同じ気持ちで始めてもらうために、プロモーション映像を見てもらうのがいいと思う。そこで映し出されていたのは、一人称視点でネコになり、カエルになり、鳥になって、魚の頭を叩き切っている光景だった。

What Remains of Edith Finch Official Launch Trailer
 率直に言って、何をするゲームなのかがつかみにくかった。きっと語り部の女の子が言うように、知るべき家族のストーリーがあって、母親が伝えなかったそのストーリーを紐解いていくゲームなのだろうとは思った。それがネコのストーリーなのか、魚の頭を切り落とすストーリーなのかはわからないけれど。

僕は猫になる

 僕はEdith Finchという17歳の女の子を操作し始めた。選んだわけでもなく、不可避的に僕はEdith Finchだった。彼女は母親を亡くしていて、兄も亡くなっていて、つまりフィンチ一族で最後の一人だった。相続した家は7年前に出ていったきり放置されていて、今に至るまでよく崩壊しなかったなと感心するほどの佇まいだ。

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無節操に拡張された奇妙な家
 家の中に入ってしばらくあたりを探っていると、秘密の通路からモリーという女の子の部屋に出た。不思議な話だ。モリーが亡くなってからもう60年も経っているのに、部屋は昨日までモリーがいたみたいで、いつでもそこでの生活を再開できそうな有様だった。
 一冊の日記を手に取る。モリーの言葉はお腹が減っていたことから始まった。いつの間にか僕はその文字を通じてモリーに成り代わり、そしてネコになった。鳥を食べたらフクロウになって、ウサギを食べたらサメになった。
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サメになったはいいがここは山中だ
 ……かなり混乱してきた。いったい僕は何をさせられているんだろう? いまだに他のゲームで求められるようなアクションとかコマンドとか、パズルすら求められていない。ナラティブとはなんだ? いやそもそもゲームとは?

手記を読み進める

 このゲームはずっと、Edith Finchの手記を読んで進んでいる。だから風景の中に文字が浮かんでいて、ずっとEdithの綺麗な英語がナレーションで読み聞かせてくれる。

ページと歩幅

 物語は手記をめくるように少しずつ進む。プレイヤーは歩いて調べる以上の動作は求められないけれど、それはちょうど、物語を読むためにページをめくる以上の動作が求められないことに似ていた。
 フィンチ一族の物語を知るために必要なのは、キャラクターを動かして文字のある方向に進めることだけだ。本を見つければ、それを拾って開く。開く動作はマウスを右から左に動かすことで実現する。歩くこと、ページをめくること、その両方が同じようにゲームプレイになっている。

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ゲームの冒頭。Edithの手記を読むところから始まる
 物語のためにページをめくる。物語のために歩く。図らずも、僕が小説を読み始めるような心持でゲームを始めたのは正解だったと言うわけだ。

ナレーションとナラティブ

 僕はEdithのナレーションを聞き続けていたけれど、これも微妙な関係だ。僕が歩かなければナレーションは始まらない。だから僕がナレーションさせているといえばそうなるし、僕がナレーションを聞いているといえばそれもそうなる。
 そういえば、ナラティブとナレーションの関係を指摘するのを忘れていた。どちらとも声を出して語るという「narrate」という動詞からできた単語だ。アルファベットでnarrativeとかnarrationと綴ってみると関係がよくわかる。
 このゲームは全編がEdithの語りで成り立っている。少なくともその点ではナラティブなゲームなのかもしれない。でも本当にただそれだけだろうか?

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光景の中に文字が浮かび、ナレーションが読み上げる

体験を形作るもの

 しばらくして、僕はこのゲームの要領をつかんできた。ゲームの構造がわかってみると、これはそう独特なゲームというわけではないことがわかった。

物語を選ぶわけではない

 ストーリーは一本道だ。その途中でどこかに逸れる可能性は慎重に排除されている。だからここには自由な道筋のナラティブは存在しない。僕は用意されたものをたどる。それもそのはずだ。物語は初めからEdith Finchの手記に書かれている。僕はそれを追うことはできても、そこから外れることはできない。
 だからこのゲームに対して、ただ朗読を聴くソフトウェアだという評価もできるかもしれない。でもここにはそれ以上の何かがある。

何が僕を動かすのか

 それは僕がブランコから空へ飛び上がったり、列車に轢かれてしまったりしたあとのことだった。カメラを構えて何かを撮影する場面で、僕はふと思った。僕はなぜ前に進むのだろうかと。
 それは実際ナンセンスな問いだった。本を読んでいるときに、なぜ君はページをめくるんだと尋ねられたら、「本ってそういうものじゃないか」と答える以外の選択はない。だからここでも答えは「そりゃあゲームはそういうものだから」ということになる。
 でもゲームを始めた頃、僕はかなり家の中を細かく見ていた。それがいつしかゲームの要領を理解して、次にするべきことを効率よくこなすようになっていた。物語を早く読みたいから? 早くゲームを終えたいから?

何もない時間・物語がある時間

 ある行から次の行に移動するとき、小説だったら視線を動かすだけでよかった。だけどこのゲームでは、正しい方向に進まなければ次のテキストは現れない。だからテキストとテキストの間にはただの風景が挟まる。家の中とか、地下とか、猫の目線とか……今はカメラのファインダーを覗いて、被写体を探している。父親を撮影すると、もっといい被写体があるだろうと言われる。僕はあらゆるものを撮影しながら、何が物語を進めるキーなのだろうかと探る。

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ファインダーを覗いて写真を撮る
 僕は物語の停止に困惑した。そこにあったのは何もない時間だった。絶え間無く続いていた物語は途切れて、ゲームが正解を求めていた。
 この断絶が何もこの場面に限った話ではなかったと気づくまで、そう時間はかからなかった。むしろこのゲームは本来たくさんの断絶で成立していたはずだった。文字の表示から次の文字にたどり着くとき、その方法がわからなかったり、場所がわからなかったことはそれまでにも何度か経験していたのだから。

行間を充填する力

 それでも僕は、そこに絶え間ない“物語(ナラティブ)”があると錯覚し続けていた。本来テキストが表示されるポイントと次のポイントは、連続性のない切り離された点だったはずだ。ちょうど朝寝坊とパンクした自転車のタイヤくらいには、すべての物事は不連続だったはず。しかし僕はすでに、このゲームを相手にナラティブを発揮していた。
 そこにあったはずの断絶は埋められていて、まさに一つの絶え間ない語りを聞いていたように錯覚していた。いったい何がそれを埋めていたのだろうか?

ナラティブ:体験を形作る力

 ナラティブはすでに十分多面的なものだった。それは阿修羅みたいにいくつもの顔を持っていて、もはや正面という概念を失っている。そしていま、そこにまた一つの新しい顔が追加された。

「ナラティブは体験を形作る力だ。それはシナリオの行間を埋めるためにプレイヤーの想像力と共犯するゲームデザインだ」

 点と点を結んでいたはずのシナリオプロットは、僕の想像力と細やかなマップデザインの力によって、なだらかで角のない曲線になっていた。誤解を恐れずに言えば、それはストーリーではなく、まぎれもなくナラティブのなせる技だった。


次回へつづく