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ナラティブを知りたくて、僕はゲームの旅に出た【序章】

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ゲーム界でナラティブというキーワードがもてはやされるようになってかなりの時間がたった。もともと英語だったこの概念は、日本語に訳されないカタカナ語として日本でも流通し、今ではゲームを評価する言葉として定着しつつある。

しかしいったいナラティブとはなんなのか、要領を得た説明はなかなか目にかかることができない。それにはいくつかの理由がある。

社会哲学・認知心理学のナラティブ

 僕がナラティブについて初めに目にしたのは、ロラン=バルトの功績について整理したテキストの中でだった。人文科学の研究をしていた頃、僕はロラン=バルトという人物の著作はどうにも苦手だった。そのあとブルーナーの著作で改めてナラティブを目にした。社会学系の僕にとって、認知心理学のその本もやはりどうにも苦手だった。

 研究者達は難しい本もスイスイ読みこなして、様々な思想を自由に使えると思ったら大間違いだ。むしろ自分とよく似た理解の仕方、モデル化を試みている本を優先的に読みながら自分の論を補強して、ちょっと新しい風を吹き込みたいときにだけ、自分と全然合わないことを話している本にあたることになる。

 だから僕にとってナラティブとはまったく肌に合わない言葉だった。

出来事を物語にするナラティブ

 どうやらナラティブは、二つの仕事をするもののようだった。
 まず、ナラティブは発生した出来事を物語にする。どこかで見たことのある物語の筋を模倣して、本来物語ではなかった出来事の羅列に物語のようなつながりを生み出す。自転車のタイヤがパンクしたことと、今朝寝坊して朝食を食べられなかったことにはなんの繋がりもないにも関わらず、僕たちはそこに「ついてない日の物語の序章」を発見して、物語風に語り出すことができる。

「その日は朝からついてなかった。目覚ましが故障していて、昨日から楽しみにしていた朝食の新しいジャムを使う機会を失ってしまった。慌てて用意して自転車で飛び出すと、二つ目の角を曲がったところでひどい音がした。誰かが撃たれたのかと思ったが、ただ何かが俺の自転車の後輪を引き裂いて破裂させただけだった。ああ、こんなのはまだまだ始まりに過ぎない。俺はその日テレビの星占いを見逃したのが残念でならなかったね。あれがどれだけ嘘にまみれているか、証明できそうだったのに……」

物語の型になるナラティブ

 ナラティブの二つ目の仕事は、どこかで見たことのある物語になることだ。僕たちは日々、家族や友人、ゴシップ記事の作り出す三文物語に触れている。何か不思議に心優しいことを言ってきたパートナーが、実は死に瀕していて、そのことを後で知って涙する……いやぁ実にひどい三文物語だ。政治家の発言の一部を切り抜いてマスコミが不祥事扱いして報道したのに対し、これだからマスコミはという調子でSNSのコメントが相次ぐ……これひとつとっても、いつものパターンがあるから全てが起こっている。
 僕たちが目にするのはパターンに押し込められた事実だ。「あの政治家は失言を言う」「死には同情を与えるべきだ」「マスコミの報道は切り貼りだ」……そんな僕たちの“おきまり”はいつ決まったのだろうか? 何が発祥なのだろうか?

 答えはナラティブだ。僕たちはひどい三文物語を目にするたびに、物事を三文物語風に理解しようとしてしまう。現実に起こっている一つ一つの具体的な物事を直視することはなくなり、一部を汲み取った三文物語だけを理解して、それに当てはめてわかったつもりになって過ごそうとする。

ゲームのナラティブ

 だからナラティブは難しいことじゃない。僕たちが語ったり、物事を見ようとしたときに、毎日のように使いこなしている能力だ。それにもかかわらず、ゲーム界でのナラティブはというと、どうにも議論がとっちらかっている。

ストーリーとナラティブ

 そもそもストーリーという概念がいけないんだ。ナラティブはストーリー風にものを理解して、ストーリーとしてそれを紡ぎ出す能力を意味する概念だったはずだ。だからストーリーとナラティブは喧嘩するべきものじゃない。ストーリーがあって初めてナラティブは活躍の場を得る。

 はずだった。

 でもゲームオブザイヤーの部門賞がナラティブアワードに変わったとき、たくさんの人が誤解した。「ストーリーとナラティブは別のもので、ゲーム業界はこれからナラティブの時代に入るんだ!」と。ナラティブという言葉の意味はよくわからないままで。

プレイヤー体験のナラティブ

 じゃあゲームのナラティブってなんだろうと考えた人たちは、それに新しい解釈を与えてしまった。

「本や映画がストーリーで、ゲームは体験するからナラティブなんだ!」

 それは実際画期的な解釈だった。つまりこれまでのゲームが何も変わる必要はないし、物語の途中でAボタンを押す場所が1回でもあれば、それはナラティブになれた。もちろん、そんなひどいことは誰もしなかったけれど、原理的にはそういうことだ。
 僕はこの解釈を正しいとか間違っているとか言うつもりはない。そんなことをしていたら追いつかないくらい、ナラティブという言葉はたくさんの使われ方をしているからだ。

没入感のナラティブ

 より優れたナラティブってなんだろうと考え始めた人たちもいた。そもそもナラティブに優劣なんてないのに、まるで実物を知らないままキリンを麒麟にしてしまったみたいに、ナラティブを楢天部にしてしまって、それでも誰も何も止めないままひた走った。

「プレイヤーがゲーム世界に没入して、ほかならぬ自分の体験としてゲームを楽しめるのが“いいナラティブ”だ!」

 これも実際広く受け入れられた。いくつかの名作ゲームがナラティブ的な作品としてとりだたされて紹介された。その実は全然ストーリーとは変わらない、ただ没入感を高めるためのグラフィックや演出に秀でたゲームというだけだったのに。

自由のナラティブ

 そのことを見抜いた人たちは、結局ストーリーの演出技法に過ぎないという狭っ苦しい檻に入れられそうになったナラティブに救出作戦を仕掛けた。助け出されたナラティブはそこでまた別の意味で呼ばれることになった。

「プレイヤーがシナリオの筋に従うことなく、自由に移動するときナラティブが生まれるんだ!」

 ゲームソフトの容量増加に伴って急成長していたオープンワールドゲームを背景にした主張だった。同じ物語を体験させられるストーリー型のゲームに対して、自分の創意工夫で自分だけの世界が生成されていくナラティブ型のゲームを区別しようとした。
 なぜその二つを区別しようとしたのかは実際のところよくわからない。きっとナラティブという言葉が「いいもの」の象徴になっていたのだろう。ナラティブの混乱ぶりはちょうどモンドセレクションのようで、自分が主張したいと思えば、少しの苦労で何かのゲームに貼り付けることができた。自分好みの意味にすり替えながら。

ナラティブってなんだろう?

 僕はこのどの意味でのナラティブも否定したくない。それらはすでに一つのナラティブとして世に出てしまっているし、それに従ってナラティブが日々作り出されているからだ。世界に広まってしまった物語の型のどれが正しくてどれが間違いだなんて、僕には決める権利はない。

 だから僕は僕なりのナラティブを見つけ出すための体験の旅にでることにした。

 ナラティブなゲームと言われているゲームは世にたくさんある。それらの中に本当に共通する要素はあるのだろうか? あるいはここで整理したように、それはひどく混乱して、濫用された概念に過ぎないのだろうか?

 それを僕は、ナラティブに敬意を評して、僕の一人称による語りとしてここに記していく。これがまた一つのナラティブとして、誰かに引き継がれることを予感しながら。


次回へつづく