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クトゥルフ神話的恐怖の現代日本的再現について

クトゥルフ神話を現代の日本人が体系的に学ぶとき、首を傾げてしまうことがあります。

独自の神話体系を構築したという点では、たしかにラヴクラフトの想像力は驚嘆に値するかもしれない。でも、それってそんなに特殊だったの? と。

 

それもそのはずです。日本には多神教に基づく様々な神々の争いと、おぞましい神話的生物の存在が語り継がれています。これに妖怪や幽霊などを含めれば、日本なんてカルトと邪神の百貨店状態といっても過言ではありません。

 

どうやらラヴクラフトの演出した恐怖は「本来想像できるはずではないおぞましい世界の枠組みをなぜか想像できてしまう」という読者経験に依拠していると私は考えています。その点で言えば、日本人がクトゥルフ神話の体系を学ぶとき、やはり「日本神話と妖怪譚のアメリカ版みたいなもんね」という調子で理解してしまう現象が起きてしまうのです。

 

この過ちは、根本的に「体系化されたクトゥルフ神話を学ぶ」ということに原因があるのですが、今日、その体系を微塵も知らないままで原作を手に取ることは極めて稀です。それゆえ、「多神教のせいでクトゥルフ神話に恐怖を感じない日本人」という語り口がときに見られるのです。

 

そこで今回は、体系化されてしまったクトゥルフ神話のクリーチャーたちに、再び恐怖の担い手としての役割を見出してあげることを目指そうと思います。つまり、現代日本人の思想を背景に、クトゥルフ的恐怖を再構成してみるのです。

 

メニュー

1.ジャパニーズホラーは宇宙的じゃない

2.コスモロジー(宇宙論)レベルの恐怖

3.あの日感じた恐怖を僕たちは知らない

 

 

1.ジャパニーズホラーは宇宙的じゃない

クトゥルフ神話の恐怖は、ラヴクラフト本人によって「宇宙的恐怖」と説明されました。その言葉が本当のところどういう意味を持っていたのかはわかりません*1

 

しかしこの「宇宙的」という語には、「外的」で「馬鹿でかい」というニュアンスが含まれているのはたしかです。

 

アメリカのホラー作品、たとえばスティーブンキングなどは、人間の深層心理に潜む悪性と狂気を恐怖の対象として描き出しています。こういう意味での恐怖の潜み方に比べてみれば、クトゥルフ神話がいかに「外的」で「馬鹿でかい(規模の)」空想を書こうとしているのか、よくわかるはずです。

 

ここで視点をジャパニーズホラーに移してみましょう。

ジャパニーズホラーの面白さのひとつは、やはり人間のおどろおどろしい感情の残滓にあります。「うらめしや」という言葉によく現れていますが、日本における幽霊は、ネガティヴな感情と密接に関わっています。

幽霊以外にも、日本には妖怪という存在が知られています。こちらの方は、独自のメカニズムを持って人間社会の隙間で生活していると考えられています*2。ふとしたきっかけで人間と妖怪の調和が乱れ、本来隠れていたはずの妖怪の領分が露呈してしまう現象が、恐怖として描かれるのです。

 

これら二つの伝統的な恐怖観にも明らかですが、ジャパニーズホラーはそもそも「宇宙的」とは程遠いところにあります。たとえジャパニーズホラーの中で登場するクリーチャーを神話生物に置き換えたとしても、それは大型妖怪となんら変わりありません。がしゃどくろが大いなるクトゥルフに変わったところで、それは記号的差異に過ぎないのです。

 

 

2.コスモロジー(宇宙論)レベルの恐怖

では、ただ「外的」で「馬鹿でかい」ものを利用すれば、コズミックホラーになるんでしょうか?

答えはノーでしょう。

 

この二つだけでは、「恐怖」がないんです。

そこで必要になるのが、恐怖の工学における安定構造の破壊という技術です*3。ちょっと回りくどい言い方をしましたが、つまりは信じていた世界が「ズレる」ときに、恐怖が生まれるのです。

 

ここで「信じていた世界」という言葉がでました。これが一神教と多神教の世界観の違いと関わってきます。

18世紀の哲学者クリスティアン・ヴォルフは、世界観のことを「cosmology(宇宙論)」と呼びました。宇宙を意味する「cosmo」はラヴクラフトが「cosmic horror(宇宙的恐怖)」と言ったときの「cosmic(宇宙的)」の語でも利用されています*4

自分たちがどんな世界の中で、どういう存在として生きているのかという理解枠組みである「宇宙論」。キリスト教が一つの宇宙論を提唱しているように、クトゥルフ神話も、アザトースを中心とした別の宇宙論として描かれます。

 

宇宙的恐怖という語は、「外的」で「馬鹿でかく」、さらに「(既存の)宇宙論を脅かす」そうした非常に直感的な恐怖を想像させられてしまう、そういう恐ろしさに対して用いられていたのではないでしょうか?

 

では「日本の宇宙論」を前提としたとき、「クトゥルフ神話の宇宙論」は十全な恐怖を演出してくれるのでしょうか?

 

詳細に日本神話や伝承の研究を行った人なら、その違いを指摘することができるのでしょう。しかし、少なくとも「一神教の宇宙論」よりは、親和性が高いように感じてしまいます。「多神教の宇宙論」に親しんでいる私たちは「クトゥルフ神話の宇宙論」を前に、そのいくつかの性質には恐怖を認めますが、ある側面では恐怖を感じなくなってしまっているのです。

 

クトゥルフ神話は、体系化されてしまったばかりに、自ら想像してしまう恐怖を失ってしまいました。こうして、「並び立てられる一つの世界観」にとどまったとき、そのインパクトは「多神教の世界観」と比較されるという想定外の事態に遭遇します。こうして、その恐怖がどうにも弱くなってしまっているのです。

 

 

3.あの日感じた恐怖を僕たちは知らない

つまり、クトゥルフ神話を体系として見たとき、私たちが理解できるのは「どうしようもないほど巨大で、人類にとって不都合なものが存在する」という部分の恐怖だけです。そういう不都合な神話生物たちが、なぜ冒涜的などと言われるのか、あるいは私たちの信じる世界を破壊していたのかなど、理解しようもありません。

 

そこで今回の締めくくりとして「現代日本的宇宙論」を破壊する方向に、クトゥルフ神話を利用した、想像してしまう恐怖を作り出す方法を検討してみようと思います。

 

神様と不可分に人間性を描いていた一神教的世界観に対して、私たちが描く人間性はいくらか人間本位です。ある面ではプラグマティズム*5と呼ぶこともできるでしょう。私たちはより好ましいと感じる宇宙論を採用しながら、気が向いた時に気の向いた信仰の神様や儀式を採用して、自分たちのcosmo(宇宙)を彩ります。

 

一見して、揺るがない存在(神的なもの)をもたないこの世界観にも、実は二つほど、揺るがないものがあります。

第一には、個人あるいは同一性です。神に依存しない主体性と意思を信仰する私たちにとって、個人の同一性を破壊するような宇宙観は強い拒絶の対象になります。たとえば、アーサー・C・クラークの「地球幼年期の終わり」で描かれる未来人類は、個人という前提を破壊します。また、クローンやジェミノイドに覚える違和感も、同種のものかもしれません。

具体的には、探索者が次第に「認識外の何か」になっていくというシナリオを提案します。できることなら、プラグマティックな前提と結びつけて、社会状況がこの悲劇に見舞われる人間を生み出しているというように設計するといいでしょう。その不可避的な不条理をなんと名付けるのでしょう? ここにおいて、私たちはニャルラトホテプという存在の新しい位置を想像してしまうのかもしれません。

 

第二には、「私たち」という集合体です。何もナショナリズムのような巨大な連合を前提にしているのではありません。ここで前提にしているのは「共感共同体」とでも呼びうるような、小さな共同性です。

個人がネットワークを形成することで、ネットワークの幻としての神話生物が浮かび上がるなら、人はなぜ、それでも交流するのでしょう? もしかして、私たちが人と語り合い、共感し、愛し合うのは、すべて神話生物をその中に作り出すためだとしたら? そういったシナリオを利用すると、私たちが前提としている「私たち」という集合体を脅かし始めます。穏やかな日常の中に、神話生物の蠢きを想像し始めたとき、狂気の世界が開かれるのかもしれません。

 

以上の例はほんの思いつきに過ぎません。プラグマティストに満ちた日本だからこそ、本来の形とは異なる形式で神話生物を利用する可能性を探ることができるという提案が、今回の本当の目的です。みなさんも自分なりの解釈に基づいて、様々な「神話生物の居場所」を見つけてみてはいかがでしょうか?

 

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*1:単に宇宙規模のクリーチャーや宇宙から飛来した生物が出てくるという意味かもしれないし、「超」とか「どえらい」というような強調表現で「cosmic」と言っただけなのかもしれません

*2:こうしたイメージは、ゲゲゲの鬼太郎や妖怪ウォッチにも見ることができます

*3:安定構造については、構造主義を参考にしています。次の記事で扱っておりますので、ご笑覧ください『貞子』の「越境」に見る恐怖演出の妥当性について - TRPGをやりたい!

*4:宇宙論は、特定の文化・社会において、宇宙がどのように成立しているのかを語る文法であると同時に、その世界の中で人間がどのような位置付けに置かれるかを扱った論理フレームでもありました。神様に従属する(be subject to)することで主体(subject)が生じるという枠組みは、日本人の主体観とは大いに異なっています。

*5:功利主義と訳されますが、ジョン・デューイなどの提唱するプラグマティズムは、実際主義・行動主義ともとれます。実際に機能すること、人々に真理だと信じられることが真理の条件だと主張し、のちに論理実証主義によって批判されます。