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【ホラー本読み漁り】粘膜人間 飴村行

「粘膜人間」という変わったタイトルの小説を読みました。

 

「変わったタイトル」と言いましたが、ホラー小説好きの間なら、この「粘膜」シリーズは結構知られているシリーズなのかもしれません。

本書の著者である飴村行さんの作品は、大正時代的エロ・グロ・ナンセンスのエッセンスが凝縮されていて、現代風の物語に親しんだ読者にとっては、読み方がわからない小説と評価されてしまうことでしょう。

 

とはいえ、本作は2008年に第15回日本ホラー小説大賞長編賞を受賞し、高い評価を受けた作品でもあります。

 

今日のレビューでは、こうした、物語の行き場を失ったような小説の楽しみ方を軸にしつつ、本作の魅力を紹介してみることにします。

 

粘膜人間<「粘膜」シリーズ> (角川ホラー文庫)

粘膜人間<「粘膜」シリーズ> (角川ホラー文庫)

 

 

 

1.そもそも、粘膜人間ってなんなの?

本作のタイトルを見た人のうち、半分以上の方が、全身に粘膜を露出した奇怪な人間状の生物が登場するパニックホラーないしはスリリングなミステリーホラーを想定することでしょう。

しかし、本作はそうしたいわゆる「現代ホラー」のスタイルをとっていません。つまり、「粘膜人間」は“概念”であって、明確な“存在”ではありません。

 

というわけで、「概念としての粘膜人間」という命題が持ち上がってくるわけなのですが、この言葉が意味することを想像できるでしょうか?

 

このブログでもたびたび指摘しているように、「粘膜」というのは(口唇を除いて)体表面に露出しない部位です。それゆえ、人間の〈内側〉というイメージと密接に関わっていて、その露出や接触は特殊な意義を与えられています。

 

そのポジティヴな発露としては、エロティシズムを挙げることができます。キスやセックスは、紛れもない粘膜接触であり、人間が粘膜接触に執着していることを端的に表しています。

 

一方で、ネガティヴな発露が存在し、それがグロテスクにつながっています。内臓をぶちまけるとか、血液が手についてぬらぬらする感覚とか、とにかく「粘膜」の〈外部〉への露出は、直接的に死を連想させ、人間に不愉快を生ぜしめます。

 

そこで登場する概念が、「粘膜人間」という人間観です。

人間の欲求と拒絶感に関わる「粘膜」こそ、むしろ、人間の存在を端的に表現する、本質そのものなのではないか、という問いかけがそこにはあるのです。

 

 

2.「物語の行き場を失った」ってどういうこと?

大衆小説の隆盛を経て、「物語」という小説のスタイルに慣れ親しんだ現代人にとって、コンセプト(概念)を伝えるための小説は非常に読み難いものがあります。

 

実はこの問題も、当ブログでたびたび扱ってきている、「物語性」の問題と関わっています。

つまり、「ゲームにしても、小説にしても、『物語』がなければ、最後まで読めない」という小説消費者が登場しているという問題です。こうした消費者が増えたことによって、小説=物語という等式は、いまや自明視されつつあります。

しかし、この自明視が、小説の表現力を矮小なものに落とし込んでしまっているのも事実です。本来、論文に対して散文として登場した小説は、たしかに大部分が物語性を伝達する手段として発展しました。その一方で、かの夏目漱石が「夢十夜」で見せたように、物語性を持たず、論理性も持たず、それでいて伝達性だけは持っているテキスト群としての小説もたしかに存在してきました。

 

たとえば、新聞には物語があるのでしょうか?あるいは論理性が?

あるいは、あなたの日記には物語があるのでしょうか?あるいは論理性が?

 

そう、ないんです。そうしたテキストというのも確実に存在していて、そうしたテキストも技法をこらせば、なんらかのアイディアを伝えることができてしまいます。

それが、コンセプトを伝える小説なのです。

 

私が個人的に愛好する小説でいえば、安部公房の「壁」とか、円城塔の「Self-Reference ENGINE」なんかがそれにあたるでしょう。

 

そうした作品群と同種の技術を用いながら、本作は人間の「どうしようもなさ」に向かって全力で言葉が連ねられていきます。その点では、平山夢明の「独白するユニバーサル横メルカトル」あたりと似ているのも違いありません(こちらはスプラッターであって、「粘膜人間」のグロテスクとは少し特徴を異にしますが)。

 

なんにせよ、この言葉たちは、読者に救済を与えるために、なんらかのエンディングを与えるために書かれているのではありません。そこにあるのはただの「グロテスク」の連鎖であって、人間の極めて本質的な営みの凝縮を通じた、「どうしようもなさ」の発露だけなのです。

 

 

3.被害者と加害者は誰だろうか?

グロテスクには、そのきっかけである「暴力」がつきものです。「暴力」が発動するとき、そこには自然と〈加害者/被害者〉という対立が発生します。

 

しかし、本作が強く訴えるのは、そうした境界性の完全な喪失です。

おそらく、この点にこそ、読者の困惑の大部分の根があるのではないかと思います。

 

構造主義を全面的に信じるわけではありませんが、私たちはなんらかの境界性を利用して、世界を概念付けています。つまり、〈内側/外側〉に〈粘膜/皮膚〉があって、〈正しさ/不当さ〉に〈被害者/加害者〉があるものなのです。そうした前提が揺るがないからこそ、多くの物語に「共感」するという現象が発生するのです。

 

しかし、本作が企んでいる「グロテスク」は、間違いなく、こうした境界を揺るがせにし、暴力によって破壊します。そうして、本来分かれていたはずの二つの概念が入り混じった、「粘膜人間」的世界が私たちの理性に襲いかかってくるのです。

 

つまり、本作を通じて、常に「正義」に立ち続ける人物はおらず、常に「理性的」な存在も残されず、常に「人間」で居続けられる存在も残されません。

 

そこに残っているのは、ただたくさんの「粘膜人間」という、不愉快な、それでいて人間の本質的な姿だけなのです。

 

といったところで、どうでしょうか、みなさん。

いったいどんな不愉快な世界がぶつけられるのか、読んでみてはいかがでしょうか?

粘膜人間<「粘膜」シリーズ> (角川ホラー文庫)

粘膜人間<「粘膜」シリーズ> (角川ホラー文庫)

 

 

 

蛇足。

しかし、TRPGとして遊ぶとなると、この要素はなかなか表現しにくいんです。プレイヤーキャラクターは常に理性の側、正義の側に属していて、そこを揺るがせにすることはゲーム自体を崩壊させかねないからです。おそらく、こうした概念をうまく表現するためには、それに応じたゲームシステムの開発が求められることでしょう。