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電源・非電源ゲーム全般の紹介・考察ブログ

【コラム】リプレイ動画時代のTRPG界で進められる共治

 クトゥルフ神話TRPGはゲーム的には古い作りをしており、現代TRPGに比べればどうしても見劣りする。

 

 この言葉は比較的多くの方に同意していただけるのではないかと思う。実際その基礎システムは1970年代に作られており、今日のTRPGシステムが開発してきた様々な補助要素の大半を持っていない。

 たとえば当ブログで提案した「経歴表」もその一つだ。キャラクター固有の物語を演出するための道具としての経歴表は、GURPS(ガープス)においてキャラクターの能力ポイントと結びつけられ、国内でもダブルクロスにおいてロイスとしてリソース運用されている。ガープスが90年代TRPGの嚆矢となり、ダブルクロスがTRPG冬の時代の雄であったことを思えば、このシステムをゲームと接続して運用するシステム作りがどれほど現代TRPGにおいて重要なのかを理解することができる。

 

trpg.hatenablog.com

 

 それにもかかわらず、多くのゲームクリエイターの予想もしなかった形で、クトゥルフ神話TRPGがブームを迎えた。多くの人に遊びやすい形式にしようと工夫を重ねた最新作ではなく、あらゆる課題が放置されたままの、手つかずで不格好なシステムが売れてしまったのだ。

 

 いったい動画時代のTRPGに何が起こっているというのだろうか?

 

 今回はその問題を「ミミクリ(模倣)」をキーワードに読み解いていく。

 

 

 

クトゥルフ神話TRPGというシステムが目指すもの

 実に忘れられがちなことがある。クトゥルフ神話TRPGは「原作のあるTRPG」だ。

 

 その主要な目標はラヴクラフトの著作群、のちに「クトゥルフ神話」として整理されたその世界を追体験することにある。このゲームの本質は「ミミクリ(模倣)」にあるのだ。このことを念頭におけば、そのゲーム設計の様々な部分を説明することができる。

 たとえば狂気ルールに首をかしげたプレイヤーがいるかもしれない。 なぜ発狂してしまった探索者に課されるペナルティが数値やデータ的に明示されていないのだろう? ダイスで選ばれてしまったら探索者ロストに直結する選択肢がなぜ用意されているのだろう? そもそもいったい何のために用意されたルールなのだろう?

 すべてはラヴクラフトホラー世界の再現のためのルールだ。プレイヤーの目標は「より魅力的な恐怖と狂気を演出すること」にある。プレイヤーの表現力を殺さないためには、発狂はデータ面に反映せず演出として運用すると定めるのが最良だ。狂気に陥り、恐慌から生命の危機に陥って、かろうじて精神的ショックに身を震わせた状態で発見されるか、あるいは死ぬ物語。ホラー世界で散見されるそんな結末を卓上で再現して悦にいる、そんなゲームがクトゥルフ神話TRPGの本質なのだから。

 探索者はホラー演出上死ぬべきときを見逃さず死ぬべきである。探索者は狂気に陥るべき時を見逃さず発狂するべきである。プレイヤーはセッションを最も魅力的なホラー作品に仕立てあげなければならない。その合意を持ったプレイヤーが集まれば、クトゥルフ神話TRPGは真価を発揮する。そのリプレイは即興劇とは思えぬ恐怖を読者に与えることになり、それこそがこのゲームの本質であることを物語ってくれるだろう。

 

 

新原作としてのリプレイ動画

 しかし昨今のクトゥルフ神話TRPGの平均的なプレイングは、いわゆるリドル(謎解き)と茶番劇と呼ばれる会話劇によって構成されつつある。TRPGをゲームと認識している層からしてみれば、こんなごっこ遊びをTRPGと呼んでいること自体が気に入らないかもしれない。

 密室からの脱出劇をやるようには設計されていないクトゥルフ神話TRPGが、なぜか密室脱出TRPGとして流通している。いかほどのホラー再現要素がセッション中に存在しているのかはその高い生存確率と少ないSANチェック回数から推して知るべしといったところだろう。こんな怖くもなんともないホラーTRPGがありうるだろうか?

 

 ここにおいて、我々はクトゥルフ神話TRPGの原作がすり替えられてしまったことに気づくべきだろう。今やクトゥルフ神話TRPGは、リプレイ動画TRPGに変わってしまったのだ。

 元来クトゥルフ神話の世界を追体験、「ミミクリ(模倣)」するためのゲームシステムだったクトゥルフ神話TRPGは、リプレイ動画の世界を「ミミクリ(模倣)」するためのシステムとして理解されている。もはや恐怖や狂気よりも、視聴者を意識した軽妙なやり取りや突拍子もない行動の方をこそ再現しなければ楽しくないという思い込みが卓を支配しつつあるのだ。

 このリプレイ効果は以前から日本ではよく知られていた。ソード・ワールドがリプレイ本の発行によってTRPGのプレイ方法を紹介してきたのはよく知られている。実際これによって、リプレイ本の「ミミクリ(模倣)」としてのセッションが広く行われるようになった。今日ではその主役の座がリプレイ本からリプレイ動画に移行しただけということもできる。しかし本当にそれだけなのだろうか?

 

 

リフレクシヴTRPGの時代

 私がここまでわざわざ「ミミクリ(模倣)」という表記を利用してきたのには理由がある。この語はロジェ=カイヨワによる〈遊び〉の分類に従っている。ロジェ=カイヨワの説に従えば、人間は模倣することそれ自体に楽しさを見出す習性がある。だからこそ、クトゥルフ神話TRPGも、現在の動画再現TRPGも、その基軸に据えられているのは「ミミクリ(模倣)」という価値観なのだ。

 「ミミクリ(模倣)」の遊びとしての側面に注目するとき、リプレイ動画というコミュニケーションツールがTRPGセッションを二重の意味で際立たせていることがわかる。第一にはすでに述べたように、セッションは「模倣する」遊びであり、その原作=目標としてリプレイ動画が機能している。その一方で、セッションは「模倣される」遊びにもなりうる。すなわち自らのセッションが、動画を通じて他者の模倣を引き起こすかもしれないのだ。

 

 すなわち、リプレイ動画再現TRPGとしてのクトゥルフ神話TRPGは、新しい可能性を獲得している。自らのプレイングを原作のリストに加える「再帰的な遊び」という性質である。リフレクシヴィティ(再帰性)を獲得したことで、もはやプレイヤーは単なる娯楽消費者ではなくなった。彼ら彼女ら、特に発信を行うプレイヤーたちは、娯楽の消費者であると同時に、「ミミクリ(模倣)」の娯楽の発信者になったのである。

 “プレイヤー”たちは発信と創作を通じて、TRPG界の中に自らを位置づけていく。「TRPGプレイヤー」という単語は今や単に「セッションで楽しむ人」という意味にとどまることはできない。むしろ「TRPG界を動かすプレイヤー」としての意味を持つのだ。あるものはリプレイ動画を投稿してより影響力のある原作を作り出し、あるものはシナリオを創作して娯楽を提供し、あるものはプレイコミュニティを運営して遊びの場を提供し、またあるものはオリジナルシステムを開発して新しい楽しさを提案する…。

 専門的な機材や高額な制作費を必要としないTRPG界だからこそ、フラットで対等な競争が実現し、多数の“プレイヤー”がTRPG界のピッチ上で躍動することができた。このようなスタイルの業界運営の典型例は「初音ミク」を中心としたボーカロイド音楽の製作と販売業界にその例を見ることができる。TRPG界もクトゥルフ神話TRPGというアイコンをコアに、多様な展開を望むことができるのかもしれない。

 

 

脱中心化したTRPG界の実像を前提に

 それでもなお、TRPG業界のセンターは、やはりシステムを作成しルールブックを制作している各チームにあると考えるべきだろうか?

 

 私はあえてこれを否定したい。

 

 もしも依然としてTRPGのセンターが“公式”側にあるのだとしたら、我々は次のように考えてしまうだろう。すなわち「きっと公式が対応してくれるはず」「公式の努力に期待する」…。しかし今やリフレクシヴTRPGの時代なのだ。“プレイヤー”たちは独自の発信を通じて、(クトゥルフ神話TRPGのゲーム性が書き換わってしまったように)公式をも凌ぐ影響力をもつことがありうる。

 「どどんとふ」の開発努力は? いくつかのTRPGSNSの開発運営努力は? 各地のコンベンションの運営努力は? …すべてが非公式な“プレイヤー”たちによる取り組みではないか。

 TRPG界は、他の界とは異なるメカニズムで動き続けている。いまや明瞭な中心は存在せず、脱中心化した多極的な界へと脱皮を遂げたのだ。それぞれの極ではそれぞれの自立進化が発生していくことになる。二次創作的なプレイングが歓迎されたり、独自のルールが加えられた改造システムでの遊びが歓迎されたり、あるいはクラシックスタイルの穏当なセッションの伝統を守り続ける極もあるだろう。これからもそれぞれが発信を行い、それぞれに影響力を強めていくことになる。

 この脱中心化したTRPG界において、もはや中央集権的ガバメント(統治)は実現し得ない。このシステムの正しい遊び方はこれであり、これ以外の遊び方には指導が必要であるというような考え方はもはや適用できないのだ。

 むしろ分権的で自律的なガバナンス(共治)を志向していく必要がある。ガバナンスとはすなわち、参加と交流の促進を意味する。それを通じて互いの魅力・努力を発信・理解しあえる状況をより一層拡張しなければならない。もはやすべてのTRPGプレイングを監視するパノプティコン(一望監視装置)は建設できないのだ。

 それぞれの“プレイヤー”がTRPG界の一員であることを自覚できるようなコミュニティづくりの努力が、今後とも重要な役割を持ち続けることだろう。そしてそれぞれの楽しみ方・ジャンル・活動がそれぞれの位置と役割を強めることで、TRPG界は互いを尊重した状態で、全体が強力に成長することができるのである。