TRPGの「楽しさ」を実現するための社会理論
「TRPGなんてな、参加者全員が楽しけりゃいいんだよ!」
……それはそうだと思うんですが、僕のように空気読むのとかが得意じゃない人には、それは結構な難題です。みなさんもこう思ったことはありませんか?
「そんなこと言われても、それはお前が楽しいだけじゃん」
「そんな一緒にお酒飲んだら仲良しみたいなこと言われても……」
「ところで『楽しい』ってどうやったら作れるんですか?」
そこで立ち止まる必要ねぇだろと、大多数の人が思うでしょう。そうなんです、その通りなんです。でも、中には立ち止まってしまう気にしぃな人もいるのです。
そこで、今日はそんな人たちのごく一部に届く幸福をめぐる社会理論について紹介してみることで、そんな人たちの悩みに寄り添いたいと思います(寄り添うとは言っていない)。
- 「楽しい」はプレイヤーが持つ自然権だ!
- 自然権と社会契約理論
- 楽遊権とセッション契約理論
- 参加者全員を楽しませるために柔軟に進行する?
- 結局どうしたらいいのさ
- 社会契約論が教えてくれること
- ゲームマスターに権力が集中しすぎている説
- まとめ
「楽しい」はプレイヤーが持つ自然権だ!
僕ら人間には等しく自然権があるそうです。命とか健康とか、財産を持ったり自分の意志に基づいて行動する権利です(手にとって見たことはありませんし、そういうのがあると“信じられている”だけなのかもしれませんが)。
これと同じように考えてみましょう。
TRPGに参加するプレイヤー全員には、等しく「楽しく遊ぶ権利」がある!
「楽しく遊ぶ権利」では長くて呼びにくいので「楽遊権」とでも呼びましょうか。「全員が楽しむのは良いこと」としばしば言われますから、きっとこういうものがあるんだと思います。
自然権と社会契約理論
自然権があると考えることで、僕たちの社会はずいぶん大きく変わった歴史があります。
自然権を思いつく前、社会を支配するのは王様で、王様の一存で人々の富も命も奪われてしまいました。いまでも独裁者が批判されるのは、自然権を侵害しているからなんですね。
そんな世界を変えるために、社会契約という言葉が作られました。
社会契約とは、平たく言えば、「社会は僕たちの自然権を守るために、僕たちが約束を交わすことで成り立っている」という考え方です。
この考え方に従えば、「王様が初めから偉い」のではなく、「僕たちの自然権を守るために王様がいた方がいい」から王様がいるということになりました。だからこそ、もし王様がいない方がいいんだったら、自分たちが選んだ別の人が国の政治をしてもいいんじゃないか、という民主主義の考え方につながっていったのです。
楽遊権とセッション契約理論
TRPGでも同じことが言えるかもしれません。僕たちが等しく楽しむ権利を持っているなら、「僕たちの楽遊権を守るためにゲームシステムがあったほうがいい」という考え方でゲームシステムを理解することができます。
しかし、もし「僕たちの楽遊権を守るためには王様がいないほうがいい」のであれば、自分たちがゲームシステムを組み替えることも許されるかもしれません。
とはいえ、これはあくまで二つの考え方です。どちらとも正しい考え方だと思います。
「何を言っているんだ?」となる方もいると思うので、ちょっとだけ具体的にしてみましょう。
参加者全員を楽しませるために柔軟に進行する?
「TRPGなんてな、参加者全員が楽しけりゃいいんだよ!」という言葉に従うと、例えば次のような進行がありえます。
プレイヤーたちがシナリオの目標達成を強く希求していたので、ルールブックに従えばその場面で使えない技能の解釈を拡張して、そのシーンで使えるものとして判定を実施してあげた。結果としてプレイヤーは楽しくセッションを終えることができた。
「TRPG警察だ! ルールブックの解釈と違っている! この卓が遊んでいるのは公式ルールではない! 即刻解卓せよ!」
とまぁ、こういうことをすると、そういうコメントもよくやってきますね。
このとき、TRPG警察さんとゲームキーパーさんの間には社会契約思想の違いがあります。
TRPG警察の考え方
ルールは全てのプレイヤーが平等に楽しむために作られたのだから、その不公正な裁定によってプレイヤーが楽遊権を侵害された可能性がある。ルール通りに遊んで苦労することに楽しさを感じるプレイヤーを暗黙裏に排除した、楽遊権の侵害行為だ!
ゲームキーパーの考え方
ルールよりもみんなの楽遊権が優先されるべきだ。たしかにちょっと不正確な裁定だったかもしれないけど、ルール通りに裁定していたらシナリオの攻略に失敗して、つまらないセッションだったと言われかねなかった。むしろ楽遊権を守ったんだ!
結局どうしたらいいのさ
どっちが正しいかなんて、僕は知りません。たぶんどっちも正しいと思います。
なぜどっちも正しいと言えるのかというと、どちらも楽遊権を守るための判断だからです。
ここで重要なのは、自分の考え方を自覚していたかどうかという点かもしれません。
ルールに従った裁定を重視するとき、ルールの完成度が極めて高く、ルールこそが楽しい卓を作り出すに違いないと信じていることになります。語弊を恐れずに言えば、「ゲームをしている」という意識が強いのかもしれません。
ルールを再解釈して柔軟に進行するとき、ルールの完成度は低く、楽しい卓の実現には工夫が必要だと考えていることになります。これも語弊を恐れずに言えば、「楽しい時間を過ごしたい」という意識の方が強いのかもしれません。
社会契約論が教えてくれること
しかし、いちおう僕たち人類は、この問題についての画期的な解決手段を用意してくれました。
それが民主主義です。
たしかに、どちらに従うのがより楽しいかなんて、集まった人によってまちまちです。ならば、参加者たちが合意を作りながらセッションを行えば、きっと楽しくなってくれることでしょう。民主主義とは、社会(セッション)に参加する市民(プレイヤー)の自然権(楽遊権)を守るための手続きとして生まれたのですから。
もちろん、民主主義も万能ではありませんから、それで全てが解決するとは限りません(多数決の弊害とか、不完全情報の問題とか)。しかし、それ以上の解決策を人類が思いついていないのもたしかです。
つまり、全員がハッピーにセッションを終えるためには、僕たちは卓会議を行う必要があります。いったいどういう楽しさを重視したいのか、どこまで既存のルールを再解釈してもいいのか、キャラクタープレイはどの程度の要素を占めるべきなのか……たくさんのことを話し合いながら、セッションに挑まなければ、本当の意味での民主的なセッションは実現しません。
ゲームマスターに権力が集中しすぎている説
その意味では、ゲームマスターは審判や裁判官としてルールを適用する存在にとどまらない、重大な役割を担っていることになります。
……ちょっと権力が集中しすぎなようにも思われます。そう言われてみれば、三権分立という便利な仕組みが作られていました。権力の集中を防いで、市民の権利を守るための枠組みです。
三権分立
行政 政府。実際の制度や政策の実行を担う。
立法 国会。制度の選択や政策の立案を行う。
司法 裁判所。法に基づいて事物の違法を審判する。
つまり、ゲームマスターの仕事を三つに分けてみましょう。
TRPG三権分立
行政 進行。状況描写やNPCの操作を担当する。
立法 会議。シナリオの方向性や適用ルール解釈について指針を決める。
司法 裁定。立法の決定に従ってセッションが行われているか監視する。
おーすごい! すごく頭が悪い!!
ごめんなさい、素朴な感想が漏れてしまいました。
でもこれでGMの独裁の危険性からプレイヤーたちは解放されます。三人のGMが役割分担して相互監視しながらセッションを進行するのです。実に民主的で素晴らしい方法に違いありません。それもこれも、プレイヤーの楽遊権を守るために必要な手続きなのです。……なのです!!
まとめ
突拍子も無いことを書きましたが、半分がジョークで半分が本気です。
セッション中に裁定や卓の雰囲気を巡って様々な対立が発生してしまいます。そうしたセッション事故に対して、自然権の概念を利用することで、話し合って決めるという対策を考えてみました。
全員の楽しさを本当の意味で保証するには大変な処理が必要なのかもしれません。「参加者全員が楽しければいい!」という言葉の裏には、大変な問題が横たわっているのです。
え? 複雑になりすぎて進行が遅くなりそう?
……み、みんなの楽しむ権利を守ることには代えられませんよ。 ね!!