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経済学の祖アダム・スミス

最近名前を思い出せなくて悔しくなっていたアダム・スミスについて、メモしておきます。

 

経済学の祖なんて言われていますけど、別に微分積分を使ってミクロ経済学やらマクロ経済学やらを立ち上げたわけではありません。

アダム・スミスは「国の富の総量」を「国民の生産する富の豊かさ」と定義したはじめての人物です。最近の経済学で「市場メカニズム」と言われているものを「神の見えざる手」と呼んで、はじめて提唱した人物でもあります。

代表作は「国富論」ですが、今日は「道徳感情論」から扱おうと思います。

 

そもそもアダム・スミスが生きた時代を考えれば、こんな議論が出てきたのもうなずけます。

アダム・スミスは18世紀半ばから後半にかけて活躍した「道徳哲学者」です。18世紀といえば、ダランベールが百科全書を編纂し、ルソーが啓蒙思想を説き、ヒュームが懐疑主義を主張して、オイラーが関数を整備した、そんな学問の爆発的な発達を見た世紀です。

そんな時代に活躍したアダム・スミスも、スコットランドの啓蒙主義を支えた気鋭の学者でした。強い影響を与えることになるのは、やはり知の巨人、もとい、彼にとっては友人のデビッド・ヒュームです。

 

「道徳や倫理はコミュニケーションにおける『共感』に根ざしている。ならば、社会が移り変わり、コミュニケーションが変われば道徳や倫理も変化するだろう。人間は本質的に倫理を知っているのではなく、自らの利益と『共感』の中に倫理を発見していくのだ」そんなヒュームの懐疑主義によって、これまで信じられていた道徳と倫理は移りゆく、変わりゆくものへと姿を変えることになります。

一方で、のちにベンサムによって掲げられた「最大多数の最大幸福」という議論も、すでにフランシス・ハッチソンによって提案されていました。ジョン・ロックに基礎を置いた道徳感覚学派にとって、人間社会の秩序の取れた振る舞いの源流は、道徳と倫理を感じ取る人間の本性にこそ求められたのです。

 

このような道徳感覚学派の主張を整理したのがアダム・スミスの著作「道徳感情論」です。

その中でアダム・スミスは「見えざる手」の存在を指摘しています。それは他者の目を意識(他者の共感を前提)した人々が自制して行動する結果生みだされる社会秩序の名前です。

 

したがって、共感を通じて学ぶにしろ、本質的に道徳を知っているにしろ、人間が集まった社会は「秩序=見えざる手」を作り出します。それはフランスでは社会契約と呼ばれていて、お互いの利益を守るためにこそ協働すると信じられていました。

この思想は王権不要論にもつながっていきます。人々は秩序の条件である道徳と倫理、あるいは利益の調整能力を持っているのですから、王様がそれを調整する必要はありません。国民が国民の富を最大化させようと努力すれば、自然と理想的な社会秩序に至ることができるはずです。18世紀末にフランス革命が勃発して、市民革命の時代が訪れるのも納得ですね。

 

当然、アダム・スミスもそのことに気づきます。本当に求めるべき豊かさとは、王宮の倉庫に眠っている金銀財宝の量ではなく、「国民の富」なのではないかと。

そこで書かれたのが「諸国民の富の性質と原因の研究」です。この著作こそ、一般には「国富論」と呼ばれる古典派経済学の決定版です。

 

この中で、アダム・スミスは有名な概念を導入しました。それは富の偏りや非合理性を自然と調整してしまう「神の見えざる手」です。国や王権による調整がなくても、どういうわけか合理的な経済秩序が生まれ、国民の富は増大していくという予言は、「道徳感情論」にその源流を求めることができるのです。

 

ここから見えてくるのは、「神の見えざる手=市場メカニズム」という原理の曖昧な土台です。目の前で起こるコミュニケーションにおける共感は、本当に富を最大化したり、適切な分配につながるのでしょうか? 答えはおそらくノーでしょう。人はそんなに他者を思いやることもできませんし、正確にその要求を見抜くこともできません。道徳や倫理は、ヒュームの言うとおり移り変わり続けていて、誰も正確な答えを知らないのです。

実際、市場メカニズムへの盲信は、ゲーム理論など不完全情報下の意思決定を扱う議論によって、のちに否定されることになります。

 

とはいえ、「国富論」で指摘された分業と分配、それを担う「神の見えざる手」は、古典派経済学の基礎として、以降100年以上も経済学を支えていくことになるのです。