TRPGをやりたい!

電源・非電源ゲーム全般の紹介・考察ブログ

あなたが投げたコントローラーに、家族は何を見るのか

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こんにちは。みなさんゲームはお好きですか? 僕もかれこれスプラトゥーンというゲームを1年以上楽しんでいます。そのスプラトゥーン2についてちょっと面白い記事を目にしたので、紹介しながらeスポーツにおける場所と概念の問題について整理しようと思います。

スプラトゥーンの異常な中毒性!?

 こんな記事を書き始めたのも、すべては次の二つの記事を目にしたからです。
toyokeizai.net
jp.ign.com
 それぞれ目を通していただけたらとも思いますけど、今日の論旨とは結構ずれるので、関係するところだけちょろっと紹介します。

家庭で暴言を吐く夫に困惑

 一つ目の記事はなかなか調査不足で問題しかないのですが、その冒頭で紹介されていた事例はスプラトゥーンプレイヤーなら「まぁわかる話」なのではないかなと思います。スプラトゥーンをプレイしていて味方の雑なプレイに苛立ち声を荒げたり、忍耐ならないときはコントローラーを放り投げたくなるなど、スプラトゥーンをプレイしてきた方なら一度ならず経験してきたことでしょう。
 今日の主題はこの現象を「eスポーツにおける競技場」という問題に絡めて論じるものです。

すぐに依存とか言わないで!

 それゆえ、二つ目の記事は実はあまり関係ないというか、一つ目の記事がいかに取材していないかを細かく説明してくれていて、僕らスプラトゥーンプレイヤーの声を代弁していたので紹介した次第です。スプラトゥーンの中にはとにかく苛立ちを抑えようとする仕組みが組み込まれていることが丁寧に紹介されています。そんなに依存性のあるゲームでもなく、むしろ配慮に満ちたゲームであることがわかっていただけるかと思います。
 それでもなお僕らがアツくなってしまうのは、真剣にゲームをプレイしているがゆえのことなのです。それをすぐにゲーム依存症だとか、凶暴化だとか、感情の制御ができなくなるだとか、短絡に言わないでほしいなと思う次第です。

わかって欲しいじゃ伝わらない

 だからといって、僕たちゲーマーは「だからわかってくれ」と言っているばかりではいけません。1番目の記事のような困惑とゲームに対する嫌悪感が生じるのも当然のことだと考えるところから歩みを進めるべきです。「いったいなぜ理解してもらえないのだろうか?」を問いかけるところから、ゲーマーと非ゲーマーの溝は埋まり始めます*1

スポーツ内の暴言

 そもそも、僕たちゲーマーが「お前あと1発だったんだから当てろよ!」などと言葉を荒げるとき、その言葉は「スポーツの中の言葉」として発されています。スポーツの中の言葉という概念は、たとえばサッカーのピッチや格闘技のリングをイメージしてもらえるとわかりやすいと思います。
 ピッチ上で「お前こっちフリーだっただろ周り見ろ!」と選手が大声を張り上げるのはわりと自然な現象です。それが広いピッチ上で伝わっているかどうかはわかりませんが、とにかく声を張ります。また、相手にひどく打ち負かされたテニスプレイヤーは自分への苛立ちをラケットにぶつけてしまう瞬間があります。「ちくしょうあのクソ野郎!」なんて審判に聞こえないように噛み締めながら。同様にリングを挟んだセコンドはもっと直接的な言葉で指示を飛ばします。「効いてる効いてる! 打て! 殴れ! 死ぬまで打て!」
 ……しかしそんな声が飛び交ったとしても、それは「スポーツの中の言葉」です。誰も本当に相手の人格を否定したり殺したかったりするわけではなくて、そのスポーツに熱中している最中の言葉遣いのラインがこのように設定されているからなのです。それは言葉遣いの文化であり、“スポーツにアツくなる”結果として生じるものでもあります*2。一つ目の記事のように、サッカー中毒だとかテニス中毒だとか言って、家族が救ってあげないとなんて言い出すことはまずないでしょう。

リビングがリングになる

 そんな「スポーツの中の言葉」たちは、スポーツの中の言葉として見る限り、まぁ品は良くないにしても「そういうものだよなぁ」と思わせる何かがあります。しかしゲーマーが「自陣塗ってんなよバカか、せめて前衛の足元濡れ」とか不平を漏らすとき、その言葉を聞いている家庭のパートナーは違和感を覚えます
 まずはこれを当然のこととして受け入れましょう。なぜなら、その言葉はリビングのソファで発されているからです。その言葉が耳に届いたあなたのパートナーはすぐ横のダイニングテーブルで紅茶を飲んで穏やかな休日を読書をして過ごしたいのかもしれないし、あなたと最近の出来事について話したいのかもしれません。リビングとは本来そういう場所だし、決して「味方クソかよ、0キルとか戦犯」などと口走るための場所ではありません。
 「スポーツのように熱中しているんだから、つい口が悪くなるけどわかってほしい」という言葉が、「リビングにリングを持ち込んで試合をするけどわかってほしい」と同じくらいの横暴さをもっているということをまずは理解しておきましょう。

eスポーツにおける「フィールド」の概念

 さて、もう少し議論を抽象化しましょう。どんなスポーツにもピッチとかリングとかフィールドと呼ばれるものが存在します。野球ならダイヤがあるしサッカーならピッチがあって、バスケでもテニスでもカバディでもアルティメットでもまぁまず「この範囲内で競技を行う」という規定がないスポーツはありません。
 ではeスポーツにフィールドはあるのでしょうか? もちろんスプラトゥーンにはマップが設定されていて、その範囲内で試合が行われます。これは将棋や囲碁の盤面と同じ意味で「フィールド」ではありますが、プレイヤーはフィールドの外に体を置くことになります。フィールドの外に体を置く競技はスポーツ界ではかなり稀で、体を動かすものではボーリングやビリヤード、卓球などの競技がかろうじてこれと似たものと言えるでしょう。しかし、それらの競技でも少なくともフィールドに隣接してプレイヤーが立つことから、プレイヤーが活動する領域は曖昧ながらも「スポーツの空間」として区別されています。

競技の場

 これらフィールドとその外縁に広がるスポーツの空間を全体として「競技の場」と呼んでみましょう。競技の場の内側なら、その言葉はスポーツの中の言葉になり、外側ならスポーツの外の言葉になります。たとえばプロレスリングや総合格闘技のマイクパフォーマンスはフィールドの外にあるものの、スポーツの中の言葉として受け取られるため、スポーツの空間が広がっているとわかります。
 こうした現象は演劇における舞台の概念と限りなく近く、儀式的な行為における儀式場の概念とかなり似通っています。舞台の上で「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と嘆く人物を見て、客席から「何を言ってるんだ! 生きていればいいこともある!」と叫ぶのは明らかに異常です。そこで展開されているのは日常とは違う空間の言葉たちであり、日常と同じ解釈をするのは間違いなのです。

eスポーツの競技の場

 その意味では、ゲームに向かい暴言を吐く夫に違和感を覚え苦言を呈する妻はある種の間違いを犯していることになります。しかし家庭用ゲーム機を通じたスポーツ空間の家庭への侵入は、むしろそうした誤解を当然引き起こす存在と言うべきでしょう。
 たしかに家庭で誰でもスポーツライクな体験ができるツールとしてeスポーツおよびゲームは画期的な存在かもしれません。しかしそれと同時に、そうした実践はストリートサッカーよろしく、日常の場を競技の場に塗り替え、不当に時空間を占拠してしまう異物に他ならないのです。光回線と家庭用ゲーム機、そしてテレビ画面を通じて、家庭のリビングという時空間に競技の場という時空間を引き込むのが「家庭向けeスポーツ」という企みに他なりません。

ゲームに偏見を持つなと言う前に

 こうして今日の主張にたどり着きます。スポーツライクなゲームは実際素晴らしいものです。しかしそれをすべての人が理解できるわけではありません。サッカーに疎い人が「なんかフーリガンが暴れるイメージで怖い」とか「スポーツバーとかスクランブル交差点で酔って飛び跳ねてるイメージで近寄りがたい」とか言うとき、ゲーマーのみなさんなら少なからず共感できるところがあるのではないでしょうか。ゲーム画面を前にしたリビングでの暴言は、これと同じ拒否感を生じさせるのです。

eスポーツに競技場を作れるか?

 スポーツライクなゲームは不可避的に家庭を競技場にします。eスポーツには物理的なフィールドが存在しないため、その空間の境界は極めて曖昧です。もし家庭にゲーム部屋があれば、その部屋の中をゲームの空間と認識するのは容易でしょう。しかしすべての家庭でそれを用意できるとは期待するべくもありません。そうである以上、たかがゲーム機だったものがテレビ画面と光回線の力を借りて、リビングの中にスポーツ空間を作り出し、壁やピッチラインという堤防をもたないそれは煙か洪水のようにリビングを包み込んでしまうのです。
 こうした事態が現実に起こる以上、もはやゲーム機の購入は以前のようなパズル雑誌の購入や将棋盤の購入の延長線上にあるものと認識するべきではありません。それはむしろトレーニング機材やサンドバッグの購入であり、かつてお茶の間の中心にあったテレビを格闘技のリングとして活用する装置を購入するということを意味するのです。その装置は必ずあなたの家に競技の場を作り出します。
 大会会場やそれに類する施設ならいざ知らず、家庭に競技空間を仕切る壁を作り出すのは困難です。ゲームはさながらストリートサッカーのように、私たちの日常生活の場を縦横無尽に蹂躙し、それでいて「これはスポーツだから」と我が物顔で非難を聞き入れないような状態が大手を振って横行することになりかねません。

わかってもらうための一歩を

 では非ゲーマーは我慢してリビングを侵食する競技空間の脅威に耐えるしかないのでしょうか? それはどうにも不平等な気がします。ゲームというのは自分が楽しむと同時に、他のプレイヤーも楽しむことが大切だと言われています。ならば同じ部屋でそれぞれの時間を過ごそうとする人にとっても、楽しい時間を提供できるようにするのがゲーマーのあるべき姿でしょう。
 そこで一つの方法を提案します。それは「スポーツライクゲームの時空間」を意味する概念を作ることです。概念の力は大変優れています。たとえば次のような現象を目にしたとき、あなたは何を思うでしょうか。

突然パートナーが赤色にツノの生えた仮面を取り出し、私にそれを装着するよう指示すると、ローストした落花生を取り出し「ONI WA SOTO!!」と絶叫して投げつけてきた。あんなに食卓から食べ物を落とすなと言っていたパートナーがこんなに乱雑に豆をばら撒くなんて、よほど正気を失っているに違いない。きっと私が昨日風呂掃除をサボったことに対する怒りをぶつけているのだろう。私は「ごめん、昨日のことなら謝るから!」と悲鳴をあげた

 特定の概念がある人とない人との間には、物事の理解に大きな差が生じます。私たちは節分という概念を知っているので、この人のように混乱することはありません。しかし実際、節分という行事で私たちがやっていることは、冷静に考えれば意味不明な行動で、それが意味不明であるという前提さえ持てば、説明して理解してもらおうという気概も生まれてきます。そして最終的に説明する内容は「節分」という概念としてパッケージ化されています。
 これと同じように、「家庭内でスポーツライクゲームをプレイする」という意味の概念を作ってみるというのはどうでしょうか。たとえばeスポーツならぬ「家スポーツ」とか「家スポ」と呼んでみましょう。こうするだけで「なかなかに荒れているけど、家スポ中だしアツくもなるか」という納得の作り方が可能になります。明確に時間を区切ったり、座る場所を変えたりするなど、「この状態のときは私は競技場の中にいる選手だ」という約束を作って、それを「家スポ」と呼んでみてください。家族が感じる違和感も、少しは減るのではないかと思います。
 ただし、それでも家スポは家庭の平穏を侵襲する新規の存在には違いありません。ゲームプレイヤーは少なからずそうした自覚を持って、極力穏やかに和やかにプレイするように心がけましょう。

……まぁ難しいとは思いますけど(苦笑)

まとめ

 eスポーツを家庭で楽しむのは、思わぬ問題を伴います。リビングに卓球台を広げたり、リングを持ち込んだりするのと同じように、平穏だった家庭にスポーツの論理と言葉遣いをもたらします。これからeスポーツの裾野が広がり、家庭で楽しめるスポーツとして受け入れられていく中で、この問題を克服する必要があるのではないでしょうか。
 ゲームを作る人もそれで遊ぶ人も、家庭の平穏をゲームスポーツの論理で塗り替えたいわけではありません。同様に、スポーツの言葉に違和感を覚える人々も、ゲームがこの家からなくなってほしいと思っているわけではありません。そうした両者の立場を尊重しながら、家庭でスポーツライクゲームに熱中する状態をすんなりと受け入れられる概念が発達してくれるように、丁寧な説明を続けていくべきでしょう。

*1:1番目の記事を書いた人はゲーム関係者らしくって、たぶん読者にすり寄ったのを書けと言われたんだろうなぁと心中察するところもある。だとしても取材不足は擁護できないけれど

*2:だからって品がいいわけではなく、本当に深刻な暴言はやっぱり反則扱いになるので、それぞれのスポーツで許容されるラインがあると考えた方がいい