【連載】ラインズ 線の文化史 を読む(2)
どうもこんにちは。ひきつづき「ラインズ 線の文化史」を読み進めてみます。
前の章では、文字と音楽について扱いながら、〈書かれたもの〉と〈声に出すもの〉との関係を解きほぐしました。それによると、文字とは本質的に音であったと考えられ、無音の文字というものは文字を人間動作と切り離した印刷術以前の時代には存在しなかったと主張されていました。
さて、そうした議論の最後に登場したのが「ライン」と「表面」という二つの用語でした。第二章はこの二つの概念の説明に費やされています。最も単純な関係で言えば、紙などの「表面」に「ライン」を描くことで文字が成立するという関係ですが、話はそう単純ではありません。
ラインの三つの姿
そもそも「ライン」には三つの姿があります。表面に描かれない「ライン」である〈糸〉と、表面に描かれる「ライン」である〈軌跡〉、そして表面そのものの破損により現れる〈切れ目〉です。三つの区分を理解することから始めましょう。
〈糸〉は空間の中に人工物や自然物として存在しています。いま僕の目の前にもiMacの配線コードが見えていますが、これらも〈糸〉の一種です。また、植物の根や毛糸にしても、どこかの表面に描かれることはありません。
一方、〈軌跡〉は違います。何かの表面に付け足すか削るかして、ラインが描かれます。たとえば鉛筆で紙に黒鉛を付け足したり、彫刻刀で木の表面に刻んだりすることでラインが描かれるようなとき、これを〈軌跡〉と呼びます。
最後の分類である〈切れ目〉はやや特殊な分類です。たとえば砂にシャベルを突き刺すとき、あるいは厚紙を切り裂いてパズルを作るとき、表面の破断がラインを作り出しています。あるいは裂いたり折ったりすることで現れるものもこの分類に含みます。つまりカーテンのしわや手相もこれと類似したラインの一種と考えられるのです。
補足:その他のライン
この分類が不完全であることは著者も認めていて、いくつか他のラインについても言及しています。始めに言及されるのが〈幽霊のライン〉で、たとえば星座を結ぶ線や国境線がそれにあたるとしています。実在していない不可視的なラインが意味を持つ例で、古くから部族間の境界としても利用されてきました。また、狩猟者が獲物の足跡を追うときに見出すものを「ひも(糸口)」と表現することもあるし、中国の伝統医療で見出される気の脈のようなものも一種の「ライン」と考えられています。
しかしそれらすべてを論じるのではなく、ラインと表面との関係について論じることができるものにだけ限定して議論を進めると断っています。
ラインの変形
〈軌跡〉と〈糸〉は全く異なるものとして存在するわけではなく、互いに互いへと変換することができます。続いてラインの様態変換について整理しましょう。
最初の例は編み物です。糸を編めば布ができます。ほら、表面ができましたね。単純です。
次の例は刺繍細工です。布という表面に糸を付け足して軌跡を描きますが、完成したときそこにはもう軌跡を見て取ることはできません。軌跡が融解してしまうのです。
表面とか糸とか軌跡というのはこのように思ったより柔らかい概念で、簡単に互いを行き来します。そのことを踏まえると、魔除け紋様と迷路について理解することができます。
軌跡が糸になる
魔除け紋様はしばしば迷路のような姿をしていたり、線が互いに交差するようなデザインをしています。紋様自体は何かの表面に描かれますが、実はその効果を発揮するとき、悪霊の目線では表面が融解し、糸として効果を発揮することが期待されています。
悪霊の世界はしばしば地底に追いやられたり、足のない存在として描かれます。地上で足を使って生きている人々から見れば、大地は明らかに「表面」として機能しています。しかし地底からの目線では、その「表面」を見つけることはできません。地上を歩けば〈軌跡〉を描くことができますが、地中では表面が存在しないため、洞窟が〈糸〉状に存在していることになります。足のない悪霊も同様に、表面に〈軌跡〉を描く能力を損なってしまっています。
そうした存在に対して、表面に描かれた〈軌跡〉としての魔除け紋様を示すと、その表面はたちまち喪失し、そこに描かれていた〈軌跡〉は〈糸〉と錯覚されます。魔除け紋様は、その表面で悪霊と対峙するのではなく、ちょうど地中に悪霊を押し込むように、表面の中に悪霊を押し込めるのです。
するとどうでしょう。互いの線がどのように重なり合っているのかわからない複雑な紋様の中で、悪霊は地上を求めて永遠にさまようことになります。このとき、組紐紋様や循環型の紋様が好まれるのは、ちょうどだまし絵のように永久に表面に到達することのできない地底の迷路をそこに表現することができるからだと考えることができます。
軌跡が糸に変換される事例として、パプアニューギニアのアベラム族のマインジェというデザイン(紋様それ自体であり手編みバッグのことでもある)と、シピボ・コニボ族のもつ身体そのものがもつラインとそれを表現した刺繍が扱われていますが、ここでは割愛します。
糸が軌跡になる
一方、〈糸〉が〈軌跡〉になるのは、紛れもなく糸が表面を作り出す「織る」という動作をその典型例としています。糸は互い違いになった縦糸に対して左右に往復した軌跡として刻まれていきます。このとき糸は縦糸のまだ布地になっていない方向へと進みながら、それと垂直な左右の運動を描いた〈軌跡〉を作り出していきます。
糸が軌跡になる例についても、いくつかの民族的事例が引かれています。タヒチの神聖な棒ト・オの「神包み」の儀式とナヴァホの織物がそれに当たります。やや事例が少ない印象があり、論理的な前進を急いでいる印象がある箇所です。
織物から文字へ
何を急いだのかといえば、以上の議論を文字に適用することです。〈糸〉〈軌跡〉と「表面」という概念をテキストに適用するのが本章の末尾になります。
結論を先んじれば、テキストも一種の編み物をなしているのではないかと論じています。英文は左から右へと進みながら、それに垂直な上下運動の軌跡を残していきます。この用例で用いられている古い手紙は実際それをよく示しているのですが、ここで掲示できないのが残念です。
ここで重要なのは、決して言葉が概念や物語を紡ぎ、織り成していくという意味で「文字が織物だ」と言っているのではないということです。もとは粘土板に刻みつけていた文字が、インクと紙(パピルスや羊皮紙)の登場によって文字通り編み物と同じような「ペンの軌跡で文という表面を編むもの」に変化したという主張をしています。書かれた意味内容や概念の話はしておらず、文字を書くという動作の話をしているのです。
蛇足:五芒星形の魔除け効果
以上の整理をうけて、皆さんはどう思われたでしょうか。
僕は個人的には、かなりこじつけがきついけれど、面白い議論だなと感じています。実際にこうすることで説明できるものがあるからです。
このブログで長い付き合いになるクトゥルフ神話では、エルダーサインという魔除けの紋章が知られています。この紋章は現実世界でも軍帽に縫われているなど、幅広く利用されています。
この五芒星にも、まさにここで議論されている〈軌跡〉から〈糸〉への移行、「表面の喪失」が見られます。上の図で任意の角から進み始めると、どの直線がどの高さにあるのか、だまし絵的な歪みに囚われているのがよくわかります。
表面に〈軌跡〉を残しながら生活する私たちは、この図像を紙面に描かれた〈軌跡〉と認識できます。一方、表面との関わりを失った悪霊たちはこの図像を〈糸〉と認識し、奥行きの揺らいだ表面のない地底に永遠にとらわれてしまうと信じられたのです。
こうした研究が重ねられることで、人類の信仰というか、迷信めいたものに対しても説明が与えられるというのは大変興味深いことです。
さて、次章は「軌跡は点の連続ではない」というまぁ当然といえば当然の話を進めます。しかしその議論が、物語や場所というものが発生するメカニズムについて、おおいにインスピレーションを与えてくれます。
次回をお楽しみに。