【連載】ラインズ 線の文化史 を読む(6)
こんにちは、ハカセです。ラインズの最終章に当たる第6章を読んでいきましょう。
それにしてもここまで読み下すのに1ヶ月もかかってしまいましたね。ようやくこれで本書も終わりになります。本書を読んで思いついたシナリオ論などについては「ゲームシナリオにおける〈壁〉と〈経路〉」シリーズに整理してありますので、ゲームシナリオへの応用を知りたかったらそちらの考察シリーズを合わせてお読みください。
というわけで、第6章「直線になったライン」を読んでいきます。
直線と曲線
言われてみれば、なぜか現代社会では直線が好まれます。まっすぐなものは進歩的で優れたものに、歪んだものとか曲がったものは後退的で劣ったものに用いられがちです(曲がった心とか)。特に西洋社会ではこの傾向は強いらしく、〈直線vs曲線〉の対比は〈男性vs女性〉の対比、そして〈文化vs自然〉にも用いられがちだそうです。
つまり、まっすぐに直立した姿勢は男性的なものと認識される一方、体をしなやかに曲げたラインは女性的なものと認識されます。このように説明されるとなるほど我々の社会でもそういう認識はある気がします。また、自然界には幾何学的な模様は存在せず、無数の複雑な曲線で構成されているという思い込みも実際抱きがちです。よくよく観察してみれば、自然界には思いの外規則的な幾何学模様が多いにも関わらず、です。
プロットラインとガイドライン
これまでの議論で、二つのラインが指摘されていました。平面に動きを持って滑らかに描かれるガイドラインと、その上に点を打ち、もとのガイドラインを削除したあと、それを再現しようと点と点を結んで生み出される連結器としてのプロットラインです。
ここでガイドラインをより一般的な概念として再定義しておきます。ガイドラインは平面を規定するラインである一方、それが消されてもよいとされているラインです。たとえばグラフ用紙に描かれている方眼はガイドラインです。地球儀に描かれた経度と緯度もガイドラインです。あるいは透視図法の消失点へ向けたラインもガイドラインです。
これらに共通するのは、いずれ実用に供するときには、なぞりこそすれ見えなくてもよいということです。よりガイドラインを拡張して理解するなら、それは現代社会のあらゆるところに張り巡らされているにも関わらず、もはや私たちの認識からは失われています。
たとえば車を運転するとき、道路はガイドラインの役割を果たしています。道路のラインはなぞられるためにたしかに存在していますが、その時ドライバーが考えるのは二つの地点を結ぶ移動経路を考えるというプロットラインの描画に他なりません。同じことが電車の乗り換えにもいうことができます。地下鉄が実際にはどのようなラインを描いているのかは注目されることは稀である一方、二つの駅の間を結ぶプロットラインを効率的に描こうとする試みは毎日数千数万と行われていることでしょう。
ルーラー(定規/統治者)
英語でRulerの第一義は統治者ですが、第二義は定規です。
定規は建築デザインの現場で用いられるようになったのですが、もとは建築デザインだけを行うデザイナーという職業は存在しなかったそうです。デザインは現場で即興的に仕上げられていて、建物は多数の曲線で成立していたと論じます。しかし建築設計を行うとき、初めて定規によって直線が描かれ、その設計図に記された直線のガイドラインに従って建設するというプロットラインとしての建築が実現したのです。
二つの概念が同じ言葉で呼ばれているのも不自然ではありません。私たちの社会にガイドラインを作り、それに従って生きるように指示するのがRuler統治者であり、同様にそれに従って建築を行わせるのがRuler定規なのですから。
そして断片化
以上の議論を通じて、人間社会をラインとして論じるための基本的な概念整理が終わりました。そうなのです、これは結論ではなく序論なのです。
線状化、あるいはプロットラインへの加工によって社会システムが発達してきた歴史は、近代化と概括することができます。私たちがどのようなガイドラインに沿ってプロットラインを描く生活を送っているのか、あるいはそのガイドラインを敷くRulerはなんなのか、そうした視線で社会を見つめることがついに可能になったのです。
しかし、ポストモダンの時代において、プロットラインを裁断してバラバラに再配置し、新しいラインを生み出そうとする活動も盛んです。現代音楽で時折用いられる五線譜の法則を打ち破った絵画的な楽譜や、全く斬新な切り刻まれたような建築デザインにその例を見ることができます(あるいは個人的には、バロウズのカットアップもここに並べたい)。
線状化の近代から断片化のポストモダンへという時代の変遷の中で、この思索の糸の続きもまた編まれ続けていくだろうと語って、本書は結ばれます。
感想
というわけで一冊分の整理が終わりました。まずは素朴に感想をこぼさせていただきます。
統一的な理論を作るというのはかなり骨のいる作業なのですが、これは見事にやってのけていると思いました。もちろん全面的に正しいとか論証が十分という意味ではなく、本書内部的矛盾が存在していないという意味です。個人的には人文系の著作は内部的矛盾がないというのが最も大切だと思っています。というのも、結局は世界の見方一つで物事の正しい姿は変わるからです。その点で、本書も十分なエネルギーを投じて仕上げられていると評価できます。
また、各所で示されているアイデアも刺激的なものが多く、この考え方に基づいて伝統的な議論を再生産しようと考えたときに、また新しい解釈が生まれるなぁと感動していました。マリノフスキーのクラ交換ひとつとっても、エヴァンス=プリチャードのアザンデか何かの親族リネッジ構造ひとつとっても、「そういう解釈もありかも」というアイデアが出てくるのは実に刺激的です。カントロビッチの「王の二つの身体」なんてのを系譜的なラインの理論でもう一度論じてみたら何が生まれるんだろうとか。
とにかくこの分野について多少の知識のある人なら、僕のような素人でもこれだけ刺激を受けるのですから、きっと楽しんで読めることと思います。
蛇足
続いていつもの蛇足タイムです。最後にやはりシナリオ理論への応用を考えてみましょう。
同時期に連載していた〈壁〉と〈経路〉の議論は、明らかにガイドラインとプロットラインの議論を参考にしています。〈壁〉を描くことで、〈経路〉というガイドラインを描き、プレイヤーはそのガイドラインをなぞって進むプロットラインを描こうとするという理論なのですから。
今回の議論を参照するなら、シナリオの近代的モデルは、ガイドラインに従って進行するパッケージ化されたものと言えます。しかしそれには同時にRulerが利用されています。プレイヤーはシナリオによって統治され、ガイドラインをなぞって「ゲームクリアという体験」のプロットラインを最も効率よく進むことを望みます。
しかし今日の流行としてプレイヤーが必ずしも一本のガイドラインに沿って移動しないゲームが登場しています。このときゲームは「ゲームクリアという体験」を再構築するための連結器というよりはむしろ、徒歩旅行のための平面として機能します。リスクや寄り道を許容し、あるいはゲームクリアそれ自体を目指さなくてもよいというほどの許容性をもったゲーム群の流行は、ゲームの脱近代化として理解することができるかもしれません。
その典型例として、サンドボックスゲームのMinecraftやStardew Valley、オープンワールドのGrand Theft Autoなどを挙げることができます。それらのゲームにもガイドラインはたしかに描かれていますが(チュートリアルや実績ツリー、シナリオとして)、むしろそれをたどることは周縁的な目的に追いやられています。目的はゲームの中で自由な体験をすることであり、そのために旧来のゲームとは異なるガイドラインの描画を行なっているのです。
【連載】ラインズ 線の文化史 を読む
終わり
次は「ストーリーの心理学」という本を読んでいきます