【連載】ラインズ 線の文化史 を読む(1)
こんにちは、ハカセです。
最近面白い本を見つけて、皆さんにも紹介したいなと思いまして、素人ながらその内容を要約していこうと思います。
今回紹介するのは「ラインズ 線の文化史」という本で、ティム・インゴルドさんの本を工藤晋さんが翻訳なさった一冊です。
つまりどういう本なの?
「線の文化史」という言葉を聞いても、いったいなんの本なのか全く想像できないというのが一般的な感想かと思います。そこで僕の方で、この本のキャッチコピー的なものを用意してみることにしました。
「ラインズ 線の文化史」の内容は、つまり「人生も運命も、文字も音楽も、全てが線で繋がっていた」というキャッチコピーで紹介できるかと思います。いったいどういう意味で「全てが線でつながっていた」のかを、300ページほどをかけて説明してくれています。
とはいえ、ごりごりの専門書で、一般の読者にも購入を勧められるかといえばそうではありません。しかし内容は大変面白いものでしたので、ぜひ一般の読者にもその内容に興味を持ってもらえたらなと思う次第です。
さて、第1回の今日は、第1章の「言語・音楽・表記法」を取り扱おうと思います。
歌と語りは何が違うの?
書けるものと書けないもの
みなさん、そもそも歌ってなんですか?
音楽ではなく歌です。言葉をリズムと音階に乗せて音にしたものでしょうか? ではひたすら語るような楽曲はどうなんでしょう。「母に捧げるバラード」とか「ガストロンジャー」とか(急に個人的な趣味をぶち込む勇気)。
現代に生きる私たちは、もはやただの「語り」と「歌」を別のものだと考えています。しかしウォルター・オングという人の考えは違っていて、本来「語り」と「歌」には区別がなかったのに、「書かれたもの」を見すぎて、それを切り離すようになってしまったのだと主張しています。つまり、「語り」は文字として書けるけれど、「歌」は文字として書けないという認識上の前提が、「歌」の定義を変えてしまったというのです。
楽譜は音楽を書いている?
しかしそれでは「楽譜」の存在を軽んじてはいないでしょうか? 「楽譜」は「歌」を書いたものになり得るので、「楽譜」に書かれたものは「歌」ではないということになってしまいかねません。しかし実際、作家と作曲家を対比してみたとき、作家は「文章」を書いて作品とし、作曲家は「楽譜」を書いて作品とします。このとき作家の作品は完結していますが、作曲家の作品は「演奏」されて初めて「音楽」とか「歌」という作品に昇華します。
ここには「書かれたもの」の性質の違いが関わっています。「文章」には概念の世界が直接に表現されていて、読み手は意味を処理することになります。一方「楽譜」には演奏の方法が書かれていて、その指示に従ってなんらかの実践を行うことで作品を生み出すことになります。
しかしこうした理解も「文章」のある側面に偏っているということに注意が必要です。たとえば演劇の脚本はどうでしょうか? (あるいはこのブログ的に言えばTRPGシナリオは?)それは作品として完結しているわけではなく、その指示に従った実践が行われることではじめて作品を生み出すことになるのです。
小結
もう一歩踏み込む前に、ここまでの話を整理しましょう。
ここまでで言いたいのは次のことです。すなわち、「語り」と「歌」は区別して考えがちだけれど、実は本質的な違いはないんじゃないの? ということです。実際、演劇の例を考えれば、曖昧な部分があるよね? と主張しています。
ものを書くとはどういうことか
タイトルにも「文化史」とあるのだから、ここで昔の話をします。そもそもコンピューターや印刷が発達する以前において、「ものを書く」とはどういう作業だったのでしょうか?
昔は書くとき喋っていた
古代の事例や修道院での事例が紹介されています。個人的に特に印象深かったのは中世の修道院の事例です。修道院では聖書を書き写す作業が行われていたことは有名です。しかしそこが呟き声で満たされていたことはあまり知られていません。文字の語るところを聞き、それを再び書き記すという動作は、まさに聖書が書かれたとき預言者が神の声を聞き、それを書き写したことに対応しています。預言者の経験した代筆を追体験することこそ、聖書を書き写すという作業だったというのです。
同様に、楽譜、音楽表記法の歴史についても事例が紹介されています。現在の楽譜以前の表記法「ネウマ譜」では、言葉の上に音程移動を示す点や斜線が付され、それによって歌の姿を伝えようとしており、本書にはその資料も掲載されています。もちろん音階を示す水平線など引かれておらず、単語の上に一見雑然と奇妙な記号が並んでいます。
なぜこのような表記法で音楽を伝えることができたのでしょうか? 実は当時の言語や音楽観が関係しています。すなわち、音程とは言葉から自ずから発生するものと考えられていたのです。それゆえ、こうした記法はあくまで補助の役割しか果たしませんでした。つまり、それだけを見ても音楽を完全に再現することはできず、ただ直接に聞いた先生の歌唱を記憶するために、ネウマ譜が効果的に用いられていたという関係だったのです。
以上の事例が論じたのは次のことです。すなわち、「(文章・歌の別にかかわらず)表記されたもの」は決して「無音のもの」ではなかったということです。
ちょっと思い切った結論:だいたい印刷の仕業
ではいったいいつから「無音のもの」になってしまったのでしょうか?
本書では、「書かれたもの」を「無音のもの」に変えてしまったのは、印刷術をはじめとする多様な機械技術ではないかと論じられています。なぜなら、写本と異なり印刷には、文字を描くという動作が失われ、言葉を動きのないものに変えてしまう力があるからだというのです。
やや乱暴に感じるかもしれません。実際やや乱暴です。
というのは、この書籍はアイデアをゴシャッとまとめた本であり、細かく細かく事実を検証して、間違いない事実かどうかを証明していく書籍ではないからです。そう考えると、幾分読みやすくなります。
そういえば線について話してなかった
さて、そろそろ本書のタイトルに戻りましょう。
タイトルは「ラインズ 線の文化史」でした。文化史要素は出ましたが、線要素がまだ出ていませんでした。そういったわけで、ここから「線」という主題を描きはじめます。
歌や語りをラインで紡ぐ
この緩やかな主題移行のために、日本の能における唱歌の例やピロ族、シピボ族の事例が引き合いに出されます。そのいずれの例でも、音が何らかの形で描かれています。ネウマ譜と同じような補助記号が用いられた能の唱歌はもちろん、ピロ族で初めて文字を読めるようになった人が新聞に見た「語りかける女性」の存在、そして歌いながら編まれるシピボ族やコニボ族の幾何模様の織物……すべての例で、音と動作が「紡がれたライン(文字・糸)」として描かれていることを物語っています。
ラインと表面という問題
しかしその全てにおいて異なる点があります。すなわち「ライン」が何に描かれているのかということです。このとき、「ライン」と「表面」という主題が姿を現します。私たちは歌や語りそれ自体であるような「ライン(文字・表記)」を作り出してきましたが、それがどのような「表面」を持つのかはいつも異なっていました。
ここで用いられる「ライン」と「表面」ですが、この時点では定義が曖昧で掴み所のない概念となっています。ですので、首を傾げたのならそれで構いません。次の章で「ライン」と「表面」について徹底的に議論を展開し、本書のテーマであるところの「線の文化史」が意味するところがようやくわかるようになるのですから。
蛇足タイム
というわけで、第1章の読解を進めてみました。
なぜこの本をこのブログで紹介しようと思ったのか、みなさんお分かりでしょうか?
魔道書の声を聞く
もちろん、TRPGシナリオが「書かれたもの」でありながら実践を指示した楽譜然とした性質を持っているというのも理由の一つですが、それだけではありません。とくにクトゥルフ神話TRPGをプレイしている方々にとって、「魔道書」の存在はしばしば不可解です。なぜ「魔道書」を読むだけで正気を失うのか、そもそも魔道書とはなんなのか、なぜそのような恐怖の対象が登場したのか、いまひとつ理解できていません。また、上演される魔道書として知られる「ミサ・ジ・レクイエム・ペル・シュジャイ」の存在についても、ぼんやりと理解しているかもしれません。
しかしこうした研究を知っておけば、そもそも魔道書などが生み出されたり、信じられていた時代において「書く・読む」という言葉が持っていた意味を理解することができます。それは直接に「音」や「精神」と関わっていて、ましてや魔道書を複写するというのは、それを書かせた神の声に耳を傾け、それを刻み付けるという「神の代筆」を意味していたのです。
図らずもクトゥルフの呼び声(call)という「声」で表される恐怖であり、その「声」を伝える媒体にも様々なものが登場していました。原作で用いられていた粘土板や絵画を、異なる「表面」に刻まれた呼び声の「ライン」であると考えれば、それらがなぜ恐怖対象だったのかを理解することができるでしょう。
こういう目線で遊んでいる方は少ないとは思いますが、僕にとっては大変興味深い一章でした。次の一生では、魔除けの模様などを例に出しながら、「ライン」と「表面」の関係が解き明かされます。当然、末尾にはエルダーサインと結びつけて、短く僕の考察を挟もうかと思います。
引き続きご笑覧ください。