TRPGをやりたい!

TRPGのトビラをひらこう!

クトゥルフ神話TRPG的な意味で「物語」ってなんだろうか?

こういう記事は久しぶりに書きますが、書かなかった時期に得たことを飲み込めてきたのでぽつぽつと。

 

さて、このブログではストーリーテリングの技法をシナリオに活用することを考えてきました。というのは、TRPGで物語を体験する可能性を追求するという目標があったからです。しかしこのとき、「物語」の定義が曖昧だったことを見過ごしてきました。

 

ナラトロジー(物語論)では、ある「筋」に従って要約できる統一性のある表現というような形で「物語」を定義します。実際このブログで主張してきた「探索空間理論」でもこの定義は継承されていました。探索空間が「物語的に見て意味のある探索者の行動を促す条件」と定義されたのは、結果的に「ひとつの筋に従って意味のある構造」としてセッションを振り返ることができることを重視した結果でした。

 

しかし、こうしたナラトロジーによる「物語」の定義を前提とすることは、クトゥルフ神話TRPGにおける「物語」の定義との間に反故を生じかねません。もちろん、クトゥルフ神話TRPGが「物語」の定義をしている訳ではありませんが、ゲームシステム上前提とされる「物語」のあり方が存在している可能性は十分にあります。

 

というわけで、本日はクトゥルフ神話TRPG的「物語」の意味について考えてみます。

 

 

 

クトゥルフ神話的物語≠クトゥルフ神話TRPG的物語

クトゥルフ神話的物語はあくまで小説

はじめに押さえておかなければならないのは、クトゥルフ神話TRPGが、いうほどクトゥルフ神話の物語を再現するのに適してはいないということです。もちろん、大部分の物語には適しているかもしれません。

しかし代表作の一つである「インスマウスの影」をとってみても、オチ手前まではかなり高水準で適しているかもしれませんが、オチとなると難しいかもしれません。ミ=ゴが登場したことで知られる「闇に囁くもの」の場合は、手紙のやり取りや会話をどう演出すればプレイヤーが退屈しないで済むのか、一考しないことにはゲームにはしにくいでしょう。

この問題は、小説的面白さとTRPG的面白さが乖離していることに原因があります。小説の場合、主人公への感情移入こそあっても、主人公はしばしば想像とは異なる動きをします。もちろん、その結果として恐怖に直面し、物語をホラー小説として成立させてくれるため、これは必要不可欠なことです。読者が登場人物の行動や決断、その周囲環境に抗う必要は全くありません。

クトゥルフ神話TRPGは課題克服ゲームと認識できる

しかしクトゥルフ神話TRPGでは、「抵抗」がゲームの軸に置かれます。プレイヤーによるインタラクティブな娯楽なので、プレイヤーの介入に対する世界の側の応答性が面白さを決定する重要な要素となります。このインタラクションはしばしば「抵抗」という形をとり、「恐怖からの離脱」や「恐怖の撃退」「恐怖の封じ込め」といった結末を迎えるのが一般的です。

この「抵抗」を形作るのが「課題」とダイスロールです。プレイヤーがゲーム内世界で容易ならざる技を要求するような「課題」に直面したとき、ダイスロールが求められます。それはまぎれもない「抵抗」であり、「課題」の克服の連鎖がTRPGシナリオを抽象的に見たときの一般形態に違いありません。

 

ゲームとして判定を楽しむ

「抵抗」がプレイヤーを存在させる

「課題」に対して「抵抗」を繰り返すゲームでは、プレイヤーがそこに存在するために「抵抗」を確実に実施する必要があります。小説では文字を読み進めれば読者はそこに存在できますが、ゲーム(特にTRPG)ではそうもいきません*1。プレイヤーがゲームに参加しているとは、「抵抗」を行なっていることを直接に意味するべきです。

この前提を受け入れるなら、クトゥルフ神話TRPGの物語はかなりの幅で限定されてしまいます。先ほど「インスマウスの影」のオチ部分がTRPGには活用が難しいと言及したのも、これと関わっています。プレイヤーが初めから確実に「抵抗」できない要素が存在していると、その部分では何一つ判定を実施することができず、プレイヤーの存在がゲーム世界から消えてしまうのです。

補論:「抵抗」しない物語

プレイヤーが完全に「抵抗」しないとき、TRPGセッションは突然小説へと姿を変えます。プレイヤーがダイスロールを求められる場面がほとんど存在せず、プレイヤーというより聞き手(≒読み手)に変わるからです。プレイヤーはただ目の前の光景を見ているほかありませんが、このとき悲劇に遭うNPCが存在していれば、そのNPCが主人公となったホラー小説と基本的には変わりありません。

非存在状態はストレス

「抵抗」できない状況が続くと、プレイヤーはストレスを感じます。TRPGを遊べていない状況が続くことを意味するため、これは当然の反応と言えます。したがって、セッションの全体を通じて、プレイヤーの「抵抗」頻度を一定に保つ必要があるでしょう。

この逆の状況として、多くの「抵抗」が連続する状態をプレイヤーがどう捉えるかという問題があります。これまでの論理的展開から継続してこの問題に解答を下すことができないため、ここでは次の仮説を設けます。すなわち、「抵抗」の連続は基本的にプレイヤーの興奮を生み出すとする仮説です。

この仮説にはいくつかの補足が必要です。たとえば右腕を伸ばしたり指の一本を動かすのに判定が必要なTRPGが苛立ちをもたらすように、あまりに煩雑な「抵抗」の処理はむしろストレスをもたらします。このため、「抵抗」の連続には煩雑上限が存在します。この上限を超えない形で「抵抗」の連続を設計しなければなりません。

 

「抵抗」が作る物語

これらの論理的前提と仮説に基づけば、クトゥルフ神話TRPG的物語の前提条件が見えてきます。

プレイヤーには「抵抗」させよ

クトゥルフ神話TRPGでは、「抵抗」が興奮を生み出します。したがって、プレイヤーの参加感を醸成する意味でも、興奮を高める意味でも、物語が盛り上がっていることをプレイヤーに伝える手段は「抵抗」を連続的に配置することにほかなりません。物語が盛り上がっている場面であっても判定が実施されなければ、プレイヤーは非存在のストレスを生じるため、その興奮を共有することができません。

“ドタバタ”の克服

そうした性質から、物語の盛り上がりの部分には必ず“ドタバタ”をもたらす「課題」の連続が求められます。クライマックスシーンがたった一つの判定で終わってしまうようでは、物語の盛り上がりはうまく伝わりません。より端的な例を示せば、シンデレラがガラスの靴を履く場面は小説的には盛り上がりますが、TRPG的には「抵抗」を連続させなければ容易には盛り上がりません。

この性質のため、物語の構造は間違いなく限定されてしまいます。たとえば小さなきっかけで物語が大きく展開する場面や、心持ちの変化といった表現は、TRPGでは盛り上がりにくくなっています。それを実現するための過程にたくさんの判定(=“ドタバタ”)を配置するという工夫無くして、TRPG的な盛り上がりを生み出すのは容易ではありません。

補足:戦闘という連続判定

その意味で、他のTRPGシステムでしばしば採用されているクライマックス戦闘というシステムは実に説得的です。戦闘処理は多くの場合多数の判定を必要とするため、プレイヤーの介入密度を飛躍的に高めることができます。クライマックス戦闘によりセッション末尾の盛り上がりを担保していますが、その代わりに戦闘なしでクライマックスを演出する場合、かなりの工夫が求められます。

 

クトゥルフ神話TRPGの前提する「物語」

以上の考察によって、仮説が含まれているものの、ひとつの結論を導くことができます。すなわち、クトゥルフ神話TRPGの物語では、物語的盛り上がりの場面で多くの「課題」が求められるということです。この条件が物語の構成に一定の影響を与えます。

“ドタバタ”の理由

先ほど“ドタバタ”と表現しましたが、この表現はかなり妥当な表現だと思われます。クトゥルフ神話TRPGの技能判定には経過時間の長いものがあり、物語的な盛り上がりの場面で「〈説得〉で3時間経過しました」などと述べるのは興ざめです。ゲーム内の時間進行に比して明らかに判定数が少なくなれば、これもまた楽しさを削いでしまいます*2。そこでゲーム内時間で瞬時に行える感知技能や運動技能が頻繁に利用されることになり、場面は認知と身体運動の連続で成立する“ドタバタ”めいたものになるのです。

意外な失敗

これと同様の理由から、儀式の実施というクライマックス展開には注意が必要です。儀式を無事に実行できるか否かで盛り上がる(=“ドタバタ”がある)なら問題はありませんが、儀式そのものを物語的盛り上がりにしたい場合には“ドタバタ”を伴うべきです。もっとも避けるべきなのは、大した苦労もなく魔術や道具が揃い、プレイヤーが魔術を実行しますと宣言するだけで、大層な魔術の描写が読み上げられてシナリオクリアに至るような事態です。こうした構成では、物語が盛り上がっているように見えても、プレイヤーと盛り上がりを共有することができません。

戦闘は必須なの?

といって、戦闘が必須というわけではありません。戦闘は“ドタバタ”を作る有効な手段の一つですが、それ以外にも“ドタバタ”を作る方法はいくらでもあります。カーチェイスや施設への侵入、危機からの脱出、機械の連続的操作……様々な方法で“ドタバタ”を生み出すことができます。こうした事態を欠かさずに(物語のクライマックスに!)設置することで、物語の盛り上がりを共有することができるのです。

 

まとめ:物語の盛り上がりに“ドタバタ”を重ねる

思ったより長くなってしまいましたが、今回書いたのはものすごく基本的なことです。熟練者の方々や普段から厳しくコメントいただく方々にしてみれば「こんなことにも気づいていないからお前はダメなんだ」と罵りの言葉も浮かぶかもしれませんが、今改めてこうしたことを述べることには少なからず意義があると信じてもう一度発信しておきます。

小説の盛り上がりが「物語の力」によって生み出される一方、TRPGの盛り上がりは「抵抗の連続」によって生み出されます。どんなに物語の文脈を盛り上がるように設定したとしても、そこにプレイヤーが(ゲーム的に)存在できるような仕組みを配置しなければ、盛り上がりを共有することができません。

このため、物語の盛り上がる場面でプレイヤーの介入ができないシナリオはTRPGでは好ましくありません。物語の盛り上がりと“ドタバタ”を重ねて、盛り上がりを共有できるような物語に必ず加工しましょう。どうしてもそれが重ならない物語を描きたいとなった場合には、相応の工夫を加えるか、いっそのことTRPGでプレイすることを諦めるという選択を取りましょう。

 

というわけで、久しぶりの考察記事でした。

 

*1:特にと限定したのには理由があり、近年の美麗なグラフィックを前提にすれば、別にムービーが多くてもムービー鑑賞ゲームとしてそれはそれで成立しているのではないかという考えがよぎったため

*2:たとえば、1日1回のPOW抵抗を7日間続けるなどと言われても、ただちに7回判定するかもしれないが、想像力が刺激されずあまり楽しいとは感じにくい