シナリオの良し悪しについて考えてみる【クトゥルフ神話TRPG】
先日Twitterで話題になっていたので、「シナリオを評価すること」について、ちょっと整理して考えてみましょう。
とはいえこの記事については幾つかの前提条件が入ります。まずはクトゥルフ神話TRPGのシナリオに話を限定します。それから、決して結論を断定しません。あくまで「考えてみる」というのが主題です。
というのは、今日の記事の趣旨は、そもそも忘れてはならない次のことを指摘することだからです。第一の指摘は、ものの正当な評価は感想とは異なるということ。第二の指摘は、シナリオには幾つかの立場の異なる視点があるということ。第三の指摘は、それぞれに異なる生産目標があるということ。
以上の各点について、シナリオの良し悪しについて論じるとはいかなることなのか、少しだけ考えを深めてみましょう。
シナリオの「感想」と「評価」
「シナリオに対するコメント」とひとくくりにされていますが、様々な水準の意見が混在していることも忘れてはなりません。それはただの雑多なコメントである「感想」と、根拠のある主張である「評価」です。これは他の種々の芸術文化における評論にも通じる分類ですが、その境界は曖昧でもあります。
ここでは理念的な考え方、つまりモデルとして完全な「感想」と完全な「評価」を描いてみて、その区別を表現してみようと思います。これもよくあることなのですが、実際にはこの二つはグラデーション状に連なっていて、境界は存在しません。感想と評価がないまぜになったコメントも世の中にはごまんとあると思われるからです。
シナリオの「感想」
まずは雑多なコメントである「感想」の最たるものを考えてみましょう。特に根拠もない感想はいくらでも言うことができて、たとえば「クソシナリオ」とか「神シナリオ」とか「なぜそう言えるのか」を全てすっ飛ばした発言は「感想」に属します。
少しだけトリッキーな「感想」の例としては、「NPCの機嫌を取らないといけないからクソシナリオだ」というものもあります。これは根拠を示しているようで示していない例です。「NPCの機嫌をとる作業が必要であること」は「悪評価」の十分条件ではありません。
「感想」に罪があるわけではありませんが、逆に言えばそれは純然たる「感想」に他なりません。ただの「感想」は、言うなれば「趣味が一致した/合わなかった」という以上の意味はありません。しばしば「感想」は一般的な意見であるかのように偽装されますが、それは主語を大きくして自分の意見を正当なものにしたい、人間によくある一般的な心性ゆえの仕方のない反応です。
シナリオの「評価」
それにしても、十分な根拠のある「評価」なんてものが作れるのでしょうか。
根拠を用意する
ここにおいて、「評価」と「感想」が実際には境目の曖昧なものであることを思い出しておきましょう。結局のところ、「感想」と「評価」の最たる違いは「根拠の量」です*1。ひとつの「根拠」が追加されるたびに、主張は強くなります。
先ほどの感想の例では「NPCの機嫌をとる作業が必要」だけが根拠でしたが、たとえば「KPの指示で技能ダイスを振る以外の発言機会が少ない」とか「NPCが魅力的ではない」とか「探索ダイスひとつに失敗するとシナリオが進行不可能になる」とか、このような根拠を束ねてみればどうでしょうか。完全に客観的な評価に到達することはできませんが、ただの感想に比べれば「事実らしさ」が上昇しています。
根拠の根拠
それでも、個別の根拠を取り出してみると、本当にその根拠が事実なのかは疑ってかかる必要があります。いうなれば「根拠の根拠」を揃えていく必要があります。
たとえば「NPCの機嫌をとる作業が必要」なのが事実なのかどうか、シナリオ資料の記述を参照してみましょう。もしもシナリオ資料に「このキャラクターと十分に会話して、心を開いたと判断したなら」などと書かれていれば、どうやらこの根拠は事実といえます。一方「このキャラクターにアイテム1番を手渡している(救済として、特に親しく会話をして心を開いている場合も可)なら」と書かれていれば、この根拠は誤りになります。
このように根拠の根拠を正確に追い求めて評価を書いていくと、「事実らしさ」を上昇させ、結果として「より正当な評価らしいもの」を描くことができます。
シナリオをめぐる3つの視点
「感想」ではなく「評価」を行おうとするとき、大きく3つの視点が存在し、3つともが異なる評価軸でシナリオを見つめることになります。すなわち、シナリオ執筆者・執筆者以外のゲームキーパー・プレイヤーの3つの視点です。それぞれ少しだけ注釈を加えておきます。
シナリオの仕組みを論じる人:ライター
シナリオ執筆者とは、決してシナリオを書いた一人を意味しません。同じようにシナリオ執筆活動を行っている他のライターも同じ視点に立ちます。シナリオを作り手の立場から理解しようとするため、「シナリオの仕組みを論じる人」という立場に置かれます。この視点では「どのようにしてうまく機能させているのか/機能させるのに失敗したのか」が主要な論点になります。
シナリオの純粋な利用者:キーパー
執筆者以外のゲームキーパーとは、シナリオを自作・加工しないものの、シナリオを読みプレイヤーに提供する立場です。「自作・加工しない」という条件を付けているため、この視点は単純な「シナリオの利用者」と考えると理解しやすいでしょう。この視点ではシナリオの仕組みよりも、実用可能性が重要視されます。
シナリオの遊び手:プレイヤー
第3の視点はキーパーを通じてシナリオを提供されるプレイヤーの立場です。プレイヤーはシナリオ全体の情報を初めから知らされるわけでもなく、セッションの過程を通じて少しずつ情報を得ていきます。プレイヤーの視点からシナリオが楽しめるものなのかどうかが最も重要な指標になるため、「シナリオの遊び手」としての意見を述べることができます。この視点ではシナリオの仕組みや実用可能性よりも、シナリオの遊びやすさ、あるいは遊び心地が主要な論点になります。
解釈の多様性を生み出す目的
シナリオの目的により評価軸は変わる
しかし、ありとあらゆるシナリオにおいて悪評価をつけられるべき根拠が同じわけではありません。たとえば「NPCの機嫌をとる必要がある」シナリオであっても、そもそもそれ自体がシナリオ作成の目的であれば、そこを指摘するのは野暮というものです。そこで重要になるのが「シナリオの目的」です。
シナリオの目的はしばしば明言されません。いったい何のためにそのシナリオが設計されているのかに無自覚なまま執筆を進めることが多いからです。この無自覚はシナリオの軸がぶれてしまうことにつながり、結果としてせっかく用意したメインディッシュである「NPCの機嫌をとる」という作業がプレイヤーの視点ではノイズに感じられてしまうという事態を招いてしまうのです。
しかし言葉として明言しないまでも、目的は案外雑感として把握はしているものです。「素晴らしいセッションを提供したい」というような曖昧なものでは評価できませんが、「NPCとの交流を楽しんでほしい」とか「自分なりの決断を下してほしい」といった水準であれば評価を始めることができます。
注記:目的を誤解した評価
したがってしばしば次のようなことが起こります。「NPCとの交流を楽しんでほしい」シナリオに対して、「問題解決に知恵を絞ってほしい」シナリオのつもりで挑みかかり、苛烈な批判を行うという現象です。
この「目的を誤解した評価」は基本的にはナンセンスであり、シナリオ制作者・批判者双方にとって良い結果をもたらしません。素朴な感想を漏らすことは自由ですが、その際には主語が大きくならないように注意しましょう(もっとも、昨今ではリツイートによって受動的に主語を大きくするという悪癖も人類に流行していますが)。
結論:評価は遠い、感想は近い
以上に整理してきたように、単一のシナリオに紐付けされたたくさんの種類のコメントが生み出され得ます。コメントは多様であっても、元をたどればシナリオはたった一つです。
したがって、「一つのシナリオの最終評価」はそれぞれの視点からの「根拠ある評価」のうち、シナリオの「目的」を正しく解釈して論じたもののみを総合することによって得られます。このように考えてみると、シナリオを正当かつ正確に評価するとは困難な道のりであることがわかります。
こうした困難な道のりを経てシナリオ一つ一つに評価を加えることに比べれば、率直な感想を述べることは極めて簡単です。結果として、評価は存在しないが感想はあるという今日的状況が生まれたように思います。感想は言うなれば口コミの下馬評であり、口コミサイトと同じくらいの信頼度しかありません。また、感想の水準では目的を誤解した意見も含まれていることがあります。
自分自身がシナリオを評価する際には根拠を付すか、そうでなければただの感想であると明示して主語を一人称に抑えること、そしてなにより、そのシナリオが何を目的にして書かれたシナリオなのかを常に意識してコメントをするように意識しましょう。逆に他者の意見を参考にするとき、それが感想なのか評価なのかを意識するだけで、信頼できる意見を選り分けることができます。
以上のような丁寧な態度を忘れず、楽しいTRPG生活をお送りください。
*1:この議論は主張の事実性を高めるために根拠の数を集め束ねるというアクターネットワーク理論、特に「科学が作られているとき」の主張に従っています(と、根拠を追加しておきます)