TRPGをやりたい!

TRPGのトビラをひらこう!

創作ツールとしてのTRPGの3つの水準

TRPGがただの遊びとして消費されるのではなく、同時に創作を行う楽しさを伴ったものとして流通しているのはありがたいことです。

しかしプレイヤー間で「創作ツールとしてのTRPG」と言う認識に齟齬があるような話もちらほらと聞きます。今日は「創作ツールとしてのTRPG」というテーマで、TRPGという活動に含まれる様々な種類の創作的意識を明るみに出そうと思います。

 

このような記事を書く目的は、どれか一つを優先しすぎる姿勢が引き起こすトラブルを回避してほしいからです。それぞれのセッションの条件に従って、最適な創作モードを選べることこそ、「創作ツールとしてのTRPG」に習熟したクリエイターに求められる姿勢なのです。

 

 

 

なぜTRPGは創作ツールになりうるのか

TRPGの高い自由度は、プレイヤーたちに想像力と表現力を絶えず求めます。

自分たちでシナリオを作成することが求められ、ゲームマスターは状況描写の言葉を自分で選び出さなければなりません。プレイヤーたちも自分たちのキャラクターの個性を表現しながらシナリオの解決に臨み、結果としてセッションは一つの物語として完結するのが望ましいと考えられることがあります。

 

言葉の選択一つとっても、それはやはり「創作」です。物語をどのような展開に運ぶのか、キャラクターの個性をどうやって物語の中で息づかせるのか。あらゆる面で、TRPGを創作的とみなすことができるのです。

もしTRPGが創作ツールであるなら、そこには小説や映画などと同様に表現技法の蓄積や流派が発生してしかるべきです。しかし現時点ではそのようなものを論じる人々はあまり見かけません。このことは、TRPGがアマチュア的創作にとどまっていることの証拠なのかもしれません。

 

TRPGはアマチュア的=擬似=創作であるという考えを受け入れたうえで、TRPGにおける3つの創作的な水準を示します。重要なのは、それぞれの水準はプロダクト(創作物)として定義されることです。映画作品が台本だけで販売されないように、あるいはメイキング映像だけで販売されないように、リプレイをプロダクトとする創作活動ではシナリオやキャラクターを同時に創作することは困難です。逆にキャラクターをプロダクトとするならシナリオやリプレイもそれを意識して、キャラクターを引き出すことに集中しなければならないのです。

 

 

シナリオという創作水準

このブログでも展開し続けているように、シナリオは一つの創作水準になりえます。しかしこれには注釈が必要です。シナリオはそれ単独で流通して初めて創作なのです。

 

身内で回すためにシナリオのメモ書きを用意して、頭の中で管理してパパッとセッションを進行させることがよくあります。このときシナリオを作成する作業は創作ではありません。

一見すればシナリオを作っているのだから、これは創作だと主張することもできるかもしれません。しかし違います。下書きの鉛筆書きだけを用意して、それを作品だと主張するのは怠慢です。あらゆる創作は客に届ける品質に高めるところまでが創作活動なのです。そのまま他人に渡しても鑑賞可能だったり、作品価値が認められて初めて創作です。したがって、“シナリオ資料の製作”は創作活動に含まれます。

 

このことは次のニセ創作を排除します。つまり、身内でセッションするために作られたメモ書きや、自分でなければ読み解けないシナリオ資料、あるいは自分でなければセッションに利用できないほど複雑だったり特殊だったりするシナリオの製作です。

これらは自己満足であり、創作活動ではありません。それゆえ私のシナリオでも書かれてセッションに供されたのち、公開されていないものが多数あるのです。

 

 

キャラクターという創作水準

プレイヤーはセッション中様々な発言を取捨選択して、キャラクター表現に臨みます。一つの個性を作り上げて表現しているという意味では、これも創作なのではないか? そう思う方も多くいることと思います。

しかし、原則としてキャラクター表現は創作ではありません。これにはシナリオ作りと同様に理由があります。もしもセッションの場だけで一時的に生まれ消費されるだけのキャラクターであれば、それは“流通する水準にないキャラクター”です。言い換えればキャラクターもまた、キャラクター単独で流通して始めて創作なのです。

 

キャラクター単独で流通するとはどういうことでしょうか?

今日、キャラクター単独で流通している創作物は多く存在します。初音ミクを筆頭に、キャラクター流通の嚆矢となったアイドルマスターのキャラクターたちや、東方プロジェクト、そして各種アニメのキャラクターたちが二次創作に供されるなどして、キャラクター単独で流通しています。

キャラクターを創作するとは、したがって次の2点を兼ね揃えなければなりません。

  • 他の物語に単独で切り出して利用できる(物語からの独立性)
  • 他の人間が模倣しやすいキャラクタライズ処理が行われている(キャラ化)

つまり、自分が自分のプレイヤーキャラクターを操作している段階では、“創作物としてのキャラクター”にはなれません。それが他者に利用され、他の物語の中に息づく個性を持ち、自分の手を離れてはじめて創作なのです。

したがって、シナリオ資料と同様にキャラクター資料を製作し、他の誰が運用しても同じように行動させることができる状態を作るのがキャラクターの創作として望ましいと言えます。

 

したがって、次のニセ創作は創作活動の一覧から排除されます。個性的なプレイヤーキャラクターを自分が運用し演出すること。セッション内で個性的なロールプレイを行うことなど。これらもやはり創作のレベルには達しておらず、自己満足的日記に属します。もしもTRPGでキャラクター創作がやりたいならば、多数のリプレイ前提セッションに同じキャラクターを登場させ、積極的にキャラクター営業を展開しつつ、キャラクター運用指針を整理した設定資料を作り上げましょう。もしもそのキャラクターが他の誰かにも利用され始めたら、それは立派な、尊敬に値する創作です。

 

 

セッションという創作水準

これまでに利用してきた創作の基準に従えば、TRPGを客に提供する段階、つまりリプレイ・生放送になって初めて作品として仕上がることになります。

いずれの方法でも、セッションは重要な役割を果たしています。セッションは映像作品における撮影にあたり、リプレイ・生放送にとっての前提となります。したがって今回は、創作としてのTRPGの一つの水準として、セッションを採用します。セッションそれ自体を創作物と考えれば、生放送セッションとリプレイを同時に創作物として考察することができるからです。

 

セッションを創作と捉えるとき、ここでもやはりセッション単独で流通できる完成度が必要だと考えることができます。リプレイ編集時の演出やシーンカットはこれを実現するための操作として特徴付けられます。

しかし、それでもやってはならない編集があります。すなわちダイス目の操作と展開それ自体の創作です。創作としてのセッションは、脚本のないぶつけ本番の即興劇という性質を持ちます。さらにキャラクターたちの行動は必ず成功するわけではなく、主にダイスの結果に左右されて、物語としての“王道”にいつも従うことはできません。このようなままならない性質を克服するために、演出それ自体を自作することは、リプレイとしては好まれません。TV番組におけるヤラセに属するからです。

 

そこで、この偶然性をいかにして演出へと転じさせるのかという点に創作としてのTRPGにおける技術力の差が現れることになります。あるいは逆に偶然の事故が発生しないように展開を制御する技術が創作力を意味することになります。

 

 

TRPGが常に創作である必要はありませんが、TRPGを通じて創作したいという意識のある方々は、以上を総合的に考える習慣を持ちましょう。自分自身の現在の活動がどの着地点=プロダクトを目指しているのか、あるいは創作ではなくただの遊びなのか。そのあたりを意識しながら最良の行動と技術運用を選択できる、よき表現者を目指してみるのもまた一興かもしれません。