TRPGをやりたい!

電源・非電源ゲーム全般の紹介・考察ブログ

TRPGシナリオにおける水路付けの重要性

小説ばっかり書いていて、こちらのブログの更新が遅れてしまいました。

申し訳ありません。

 

最近読んだ小説の書評とか、書き進めているシナリオの話とか、書こうと思えばかけるのですが、1日の筆力と、頭の切り替え能力的に、今日は小説を書いていて、TRPGに対して抱いた新しい感覚を報告することにしようと思います。

 

私は、TRPGやCRPGを、物語を伝える一つの媒体として扱い続けています。つまり、媒体という点では、小説とTRPGは並び立てられるべきだと考えています。そうだとしたら、それらの違いについて、もっと意識する必要もあるはずです。

しかし、これまで、短編小説しか執筆してこなかった私は、本当の意味で小説の特徴を理解してはいなかったかも知れないと感じるようになりました。

 

 

 

1.物語の自由度は小説の方が圧倒的に高い

ソード・ワールド2.0のシナリオをメインで執筆していた私が、クトゥルフ神話TRPGのシナリオライティングに没頭したのは、主にその自由度に由来します。

 

戦闘によって課題を克服することが条件づけられたソード・ワールド2.0と違って、クトゥルフ神話TRPGは、様々な方法で問題に取り組むことができます。こうした性質は、シナリオの自由度を高め、様々な物語を描き出す土壌になってくれます。

 

しかし、クトゥルフ神話TRPGにも物語の制限が課せられていることも事実です。

たとえば、すべての市民が光線銃を持って、コンピューター様の統治に従っているような世界での物語を紡ぐことは、このルールの限界を超えています(脳管の中で見ている夢という扱いにすれば可能かもしれませんが、プレイヤーとの同意が必要でしょう)。

 

その点では、自らが構想したSF的な装置を登場させる場合、TRPGは壁にぶつからざるを得ません(パラノイアならなんとかなるかもしれませんが)。超能力が発現した世界を描くなら、それに対応したルールブックを使わなければなりませんし、タイムマシンのある世界を描くなら、それに対応したルールブックを使わなければなりません。

 

結果として、ルールの選択が、世界観と物語制限の選択として機能します。

すべての制限が失われている小説の世界とは全く性質が異なります。

 

 

2.叙述トリックや伏線の配置なども、小説の方が圧倒的に優れている

当然なのですが、小説では、主人公や他の登場人物の動きは、作家の思うように操作できます。

 

この「思うように」というのも曲者なのですが、結果として、作者が一番面白いと感じていたり、その登場人物らしいと感じる行動をとらせることができるのは確かです。

 

一方のTRPGでは、プレイヤーがその役割を担います。

キーパーやGMを担当したことがあれば、よくわかると思いますが、プレイヤーの行動や、発言は、必ずしも「空気を読んだ」ものにはなりません。問題の全容はわかっていませんし、生命の危機に怯えているかもしれません。プレイヤーの言語能力はかっこいいセリフを次々に作り出すには不足するかもしれませんし、洒落た皮肉の一つも浮かばないかもしれません。

何より、シナリオライターが意図した形で、物語の伏線を拾っていってくれるとは限らないのです。

 

そうした条件によって、物語を体験させる場としてのTRPGは、たくさんの課題を含まざるを得ません。

TRPGシナリオライティングとは、主にこの点での課題を克服するための論理的情報処理のことであると言ってもいいでしょう。

 

つまり、どうしても先に拾わせたい伏線があれば、どうやってそれを強制的に回収させるように仕組むか考え、どうしても発させたいセリフがあれば、それを言わせないで進行する可能性をどうやって潰すか、ひたすらそれを論理的に処理していかなければなりません。

TRPGシナリオとは、想定と想定と想定、そして想定という繰り返しの中で作り上げられるものなのです。

 

 

実はこの性質、小説よりは論文によく似ています。

小説の場合、読者が何を考えようと、物語は一つの方向に進むことになり、テキスト内の整合性が取れていさえすれば、それに難癖をつける読者は稀です。難癖をつける読者も、IFとして2次創作を行ってみたりしながら、作品の強い物語性にはむしろ肯定的な評価を与えることもあるでしょう。

 

一方で、論文は全く異なる読まれ方をします。

論文というのは、水路を作ることである、と言う風に説明されます(「科学が作られているとき」参照)。水路付け、あるいはカナリゼーションと呼ばれます。

つまり、何千人の読者が水を流しても、同じところに流れ着くように調整した結果として、論文が書かれているのが理想的なのです。執筆者は、水路のすべての地点がしっかりと補強されていることを確かめなければなりません。そうしなければ、思わぬ地点を攻撃する読者が登場したときに、簡単に氾濫(=論理破綻)してしまうからです。

 

ここで行われているのが、想定です。

論文は、いつも想定読者を定めて書かれるものなのですが、同じように、TRPGシナリオも、想定プレイヤーというものを作る必要があります。

一つでも多くの想定読者からの反論に、前もって返答を用意しておくのが、論文の質の向上を意味します。

同様に、一人でも多くのプレイヤーの行動に、前もってキーパリングの対応を定めておくのが、シナリオの質の向上を意味します。

 

もしもTRPGを、特定の物語を伝えるための媒体として利用したいなら、あらゆるプレイヤーを想定して、すべての逸脱を防ぐための防波堤を用意しなければなりません。それは、CRPGにおいて超えられない段差があったり、道を通してくれない男がいるようなもので、いくらか不自然なものにならざるを得ません。

TRPGプレイヤーなら、こうした装置を嫌うことでしょう。それゆえ、TRPGは物語を伝えるための媒体としてはどうしても弱いのです。

 

 

3.「物語を追う」という言葉の意味が違う

結果として、物語の作り手として本当の自負があるなら、小説を書け、ということになります。あるいは、漫画やアニメーションだって、同種の役割を担えるでしょう。

 

それでも、TRPGシナリオライティングや、CRPGシナリオの執筆を通じて、物語を作りたいなら、全く別の努力が必要になります。

 

第一には、ゲームそれ自体の自由度を制限しないこと。

ゲーム自体の自由度設定を殺してしまうシナリオは、ゲームシナリオとして失敗です。TRPGにおいて、選択肢式のゲーム展開はあまり褒められたものではありません。あるいは、鍵がなければ開かない扉(ピッキングや蹴り破ることができない扉)によって、強制的にイベントに巻き込ませるのもあまりいいシナリオとは言えないでしょう。そういう扉を出すなら、事前にそれとわかっていて、思いつくようなら爆薬の用意ができるように設定しておくべきです。

 

第二には、物語へと収斂させる水路付けを意識すること。

プレイヤーたちの自由度を制限していないにもかかわらず、何種類かの物語に落ち着いていくような、水路付けを行う必要があります。ここで登場するのが、水路付けの技術です。プレイヤーたちの行動を可能な限り予測して、可能性をしらみつぶしに検討し、物語に押し戻すために必要な要素を書き加えなければなりません。ただ自分の好きな物語を描くのとは、わけが違うのです。

 

特に第二の点に対する注意がおろそかになると、シナリオを用意したキーパーが、プレイヤーを非難するという、わけのわからない事態へと発展します。

基本的に、思うようにいかないシナリオは、キーパーの想定不足なのです。

 

 

…あくまで、シナリオライター側の心構えであって、プレイヤーとしてはまた別なんでしょうけどね(苦笑