TRPGの即興性を複製して流通可能にできないか?
個人的に知り合っている現代アーティストの方がシェアしてくれた、こちらの記事を読んで、ちょっと考えさせられたので、考察をしてみることにしました。
この記事に目が行ったのは、わたしにも最近ようやく、ポップスバンド“相対性理論”のブームが来ていたので、その仕掛け人の一人に強い興味を持ったからです。
実は、わたしのシナリオの大半、たしか、ソード・ワールドのキャンペーンシナリオあたりから、シナリオライティングの際にはずっと、相対性理論の曲をエンドレスリピートで聴いていました。
クトゥルフ神話TRPGリプレイで登場する、恐ろしかったり残虐だったりするシーンも、執筆中のわたしの耳元では、柔らかいウィスパーヴォイスの女性ボーカルがのどかな歌を歌っていたのです。
そんな、わたしの執筆生活に欠かせない重要な役割を果たした“相対性理論”の仕掛け人、真部さんの語りが、TRPGとどのような関わりを持つと言うのでしょうか?
1.TRPGの挑戦はどこへ向かうべきなのか?
まず、真部さん、件の記事の中で次のように語っています。
既存のゲームを否定する、または縛りを設ける、ということではなく、あらかじめある制約の上にもうひとつ階層をつくりたいというか、チェス盤でチェッカーをやるような……同じフィールドを使って、全く違うコマやルールでゲームをしてみたいんです。言葉で説明できる枠組みの中に、言葉で説明できないパワーであったり、エネルギーみたいなものが投入されて変わっていく、という事象にとても惹かれますね。だから、そういう作品を生み出すチャンスがあればと思っています。
ここでは二つのことが語られています。
第一には、音楽業界のスタンダードに対する姿勢。
第二には、その立場から見えてくる「自分の音楽」で先鋭化したい特徴。
全体の中でも、この語は非常に印象的です。
音楽業界がすでに成熟していると考える人は、こんな姿勢を持つことはできません。これまでの音楽業界が培ってきた土壌は活かしながらも、そのうえで自分の音楽を作ろうという姿勢が強く表出しています。
この姿勢は、TRPGのシナリオライティングを行う人々にも、本来、求められる姿勢ではないかな、と思うわけです。
わたし自身は、まだキャリアが短いので、シナリオとしてまとまりのあるものを作るだけで手一杯です。しかし、いずれは、「ハカセが作ったシナリオ」という言葉が、ある種の特徴をもって語られるような、そんな独自のスタイルを確立したいと思っています。
そういう味のあるシナリオライターになるためには、どういう姿勢が必要かというと、「TRPGのルールを壊したり、縛りを設けたりするのではなく、その既存の制約のうえに、もう一つの階層を作る」という姿勢に他ならないのです。
そうした視点から捉えた時に、真部さんはすでに、自分の目指したい方向性を知っています。
一方で、キャリアの短いわたしは、それをすぐに述べることができません。まだまだ未熟ということです。
2.一回性と複製性:TRPGマーケティング最大の課題を考える
この方向性について、真部さんがどのような探求を日々行っているのか、窺わせるのが、次の箇所です。
でも僕は、どちらかというと、複製される中で劣化されない要素のほうに興味があるんです。この意見自体はすごく前時代的だと思うんですけど、ドラマツルギーを用いて、一回性の持つ感動を、複製に耐えうる形でパッケージするというのが自分の中の課題なんです。
この発言自体は、ライヴによる音楽の提供と、録音による音楽の提供との対立について、真部さんが独自の視点から克服を企んでいることを窺わせます。
音楽をライヴによって提供する場合と、複製された録音として配信する場合とで、何かが変わっている、という考え方は、非常に伝統的なものです。音楽ファンの中には、ライヴにこそ音楽があると考える人もいて、複製された配信音楽を嫌うことさえあります。
これに対して、真部さんが目論んでいるのは、「ライヴ的な音楽」の魅力を「複製的な音楽」の中に折りたたむ術を発見していくというものです。こうした形式は、おそらく、これまでの音楽産業の形式化された収録環境や販路では実現できない、新しいアートになっていくことでしょう。
といったところで、この話題をTRPGに差し向けたいのです。
TRPGは、非常に即興性が高いゲームです。サイコロによってランダムに状況が変化し、プレイヤーとGMの間での会話が物語を予期せぬ方向に動かしていきます。
しかし、この面白さ、あるいは感動は、TRPGをプレイする〈いま・ここ〉にしか発生しません。まさしく、一回性の感動なのです。
この感動を、複製して、たくさんの人に流通させようという企みは、これまでも多く行われてきました。他ならぬCRPGがそれにあたります。
コンピューター上で、あらかじめ用意されたシナリオを辿ったり、少ないながらも分岐するストーリーをたどるCRPGは、物語の媒体としてのRPGを広く流通させ、ポピュラーな形式にまで高めたと言っていいでしょう。
しかし、こうした複製された感動の中に、一回性の感動の居場所が失われていることは否定できません。
確かに、分岐量の増加やオープンワールドシステムの流通など、CRPGでも高い自由度が追求されつつあります。しかし、集団で困難に挑戦し、即興的に生み出される奇抜な方法で課題を克服していくあの感動は、CRPGでは味わうことができません。
CRPG側が高い自由度を目指して取り組んでいるように、TRPG側も、複製性の問題に取り組むべきだと思うのです。
つまり、ルールブックを持っていても、よいGMが存在しなければ、ハッピーなセッションを行うことができなかったり、流通しているシナリオ数が明らかに不足していたりする状況に対して、なんらかのアプローチを行うべきだと考えています。
そうした取り組みの結果生まれたものが、カードゲームやCRPGなのかもしれません。しかし、それが本当に究極系なのでしょうか?あれらのものは、TRPGの面白さを全て内包しているのでしょうか?
そうした問題意識を持ちながら、TRPGに取り組むことが、この界隈の人間には求められているのではないかな、と思わされた次第でした。