TRPGをやりたい!

電源・非電源ゲーム全般の紹介・考察ブログ

〈科学的なもの〉と〈伝承的なもの〉のファブリケーションについて

最近悩まされている問題について、ちょっとしたメモを。

 

わたしの作風には、大きく分けて二種類の色があります。

第一には、「アンドロイドは名状しがたき夢を見るか?」で発揮した、SF好きとしての科学知識を使ったシナリオです。研究者時代の取材を通じて獲得した科学知識を動員して、ロボットや人工知能、脳科学などの話題をぶち込んでいくスタイルです(本来一番詳しいのはゲノミクスなのですが…)。

 

第二には、「忘却の結末」や、現在執筆中の「小島に潜む巨悪」などで利用している、研究者時代に培ってきた調査能力を利用した、各地の怪異や伝承、古代宗教などを利用したシナリオです。忘れがちな人文科学者としての本分を遺憾なく発揮して、なかなか面白いシナリオをかけているのではないかな、と思っています。

 

このところ、小説の電子出版へ向けて、この二つの色を持った物語を、どうにかして、一つのものにまとめあげたいと考えています。

果たして、それはどういう物語になるのでしょうか?

 

 

1.科学と伝承はかけ離れている?

二つの要素がどうしてまとめあげられないのか。

言うまでもないかもしれませんが、深く考えてみましょう。

 

おそらく、その違いは、

 

〈確かなもの〉と〈不確かなもの〉

 

という対立に収斂するのではないかと思います。

 

たとえば、「忘却の結末」で利用した、「鬼子」や「十二様」といった伝承と、「アンドロイド…」で利用した、「アンドロイド」や「人工知能」といったテクノロジーを比較してみましょう。

 

わたしたちがそれらの単語を耳にした時、圧倒的に聴き慣れているのは、後者の単語たちです。つまり、「アンドロイド」や「人工知能」、もっと詳しく言えば、「空圧式アクチュエーター」や「ニューラルネットワーク型コンピューター」といった表現は、少なくとも、その実体が明らかなのです。

一方で、「鬼子」や「十二様」、あるいは「建甕槌尊」などと言われても、その実在性は危うく、大部分フィクショナルな様相を呈してしまいます。

 

つまり、〈科学的なもの〉は、かたや〈確かなもの〉として、現象を実体へと変換してくれる役割を果たし、〈伝承的なもの〉は、〈不確かなもの〉として、現象を虚構へと落とし込んでいく役割を果たすのです。

 

この対立関係から、「〈伝承的なもの〉〈科学的なもの〉として説明していくことで、その実体が明らかになっていく」という形式が、ホラー・ミステリーとしての王道パターンということになります。

 

 

2.現在的リアリティと現実の構築

こうした形式が採用される背景には、今日的リアリティの構築学が関わっています。*1

 

わたしたちは、日々、様々な物や知識に接します。こうした物や知識は、様々な社会活動の結果生まれた物品・知識ですが、そうであると同時に、新しい物品・知識を受け入れるための、知的前提としての役割を果たします。

 

いわゆるソシャゲひとつとっても、スマホや通信技術、ゲームという概念、キャラクターという概念や、カードコレクションという活動、その他もろもろの、「すでに知っているアイディアの集合」として、形成されています(さらに、個別の要素、たとえばスマホそれ自体も、テクノロジーの集合として形成されています)。

 

このように、人々は、物や知識、活動を〈確かなもの〉として自分たちに理解・納得させるために、一種の集合を形成します。

 

ここで重要なのは、こうした知的前提に、〈伝承的なもの〉が含まれていない、という点です。

 

つまり、〈伝承的なもの〉を使った説明は、いつまでも、〈不確かなもの〉であり続け、それを事実として受け入れるための条件である、既知の物の集合を形成することができないのです。

 

 

3.ファブリケートしてみる

こうした理由から、王道のホラー・ミステリーというパターンが肯定されますが、これでは面白くありません。

 

「かつての〈伝承的なもの〉が、現在において〈科学的なもの〉として説明される。」

この形式がミステリーと同一視されるのは、「〈謎〉〈解決〉する」という構造をもつからです。

 

しかし実際には、ここで行われているのは、構築主義的に言えば、翻訳にすぎません。つまり、〈伝承的なもの〉を用いた説明を、〈科学的なもの〉を用いた説明に翻訳しているのです。ここで、一方が〈解決〉として扱われる背景には、2節で扱った、〈伝承〉に対する〈科学〉現在性を据えることができます。

 

ここで強調したいのは、「〈科学的なもの〉の方が身近にある」という理由だけで、この翻訳を〈解決〉と同一視することに対する懐疑です。

 

逆に言えば、次の問題を提起したいのです。

〈科学的なもの〉を使った説明の先に〈謎〉が横たわるような事態を創造し得ないのでしょうか?

 

 

間違いなく科学的存在であるにもかかわらず、理解できない存在を表現した時に、私たちはそれをなんと呼ぶのでしょうか?

おそらくそこにこそ、現在的な〈伝承的なもの〉の生成を見ることができるような気がするのです。

 

しかし、こうしたシナリオは、執筆が困難といってもいいでしょう。

というわけで、はじめから、ゲームシナリオとしてではなく、小説として書くことにしたと言うわけです。

 

何を言っているのかわからないかもしれませんが、現在執筆中の小説は、こういった話題をテーマにしています。うまく書けないかもしれませんが、引き続き執筆に専念いたします。

 

動画更新が遅れてしまって申し訳ないなぁなどと思いつつ。

*1:構築主義思想を参照のこと。ここで論じているのは、簡単のために、本来の構築主義との間にズレを含んでおり、学術的には正確ではない。